郵便配達はベルを鳴らさない

平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

『ミツコ』と私の苦い思い出

ゲラン『ミツコ』は名香として知られる。

ジーン・ハーロウが愛用し、彼女の2番目の夫は拳銃自殺をする際に妻の『ミツコ』を浴びていたという有名な話がある。その他にも、この香水を好んだ著名人にはイングリッド・バーグマンチャールズ・チャップリンのような豪華な顔ぶれが挙げられる。
映画俳優が並んだついでにいえば、アル・パチーノ主演の『セント・オブ・ウーマン 夢の香り』にもこの香水は登場する。人気のほどがうかがえるというものだ。

www.guerlain.com

ところでこの香水はよくクーデンホーフ光子がモデルであると言われるが、実際のところはそうではない。

ミツコ…… 日本語で「神秘」を意味するこの名前は、フランスの作家クロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名前でもあります。夫で権力者の海軍将校の東郷に立てた貞淑の誓いと敵国の将校との秘密の恋の間で揺れ動くミツコは、凛とした態度で自らの欲望に立ち向かいます。調香師のジャック・ゲランは、小説のヒロインにインスパイアされて微かにアンドロジナス的でありながらも狂おしいほどに女性的なシプレーのフレグランスを生み出しました。

1919年に発表されたクロード・ファレルの小説『ラ・バタイユ』の登場人物がモデルになっている。ヒロインのミツコは日本海軍将校の若き妻であり、英国将校と惹かれあうものの最終的にはそれを拒む。
この小説は何度か映画化されており、そのうちの一作は1923年に早川雪洲主演で撮影された。*1

ヨリサカ侯爵に扮した早川雪洲

海軍将校ヨリサカ侯爵を早川雪洲が、その妻ミツコを雪洲の妻である青木鶴子が演じている。現実で夫妻である二人が映画内でも夫妻を演じているとはなんとも粋なキャスティングである。

この事実から、私の限界こじつけ脳はつまりは「小説をもとに作られた香水」と「小説をもとに作られた映画」ということで間接的に早川雪洲とゲランの『ミツコ』は関係があるのではないか? という結論を導き出した。手元に欲しい! と思って値段を確認すると、日々金欠にあえぐ貧乏学生の眉間の皺はよりいっそう深くなるばかりであった。以来、『ミツコ』は高嶺の花として私の記憶の片隅に鎮座していた。

それからしばらくして、世の中には高価な香水を少量に分けて売るサービスがあることを知った。いわゆる「お試し」というやつである。香水といえばあのデザイン性の高いボトルの数々のイメージが強かったので、天地がひっくり返る……とまではいかずとも海が真っ二つに割れたような驚きだった。中身だけ小分けにして販売なんて芸当ができるのか。これならば『ミツコ』に手が届くかもしれない。私はさっそく3mmアトマイザーで装う侯爵夫人を迎えるべく然るべき手続きをとった。

数日後、『ミツコ』が我が家にやってきた。私の持つ他の香水と一線を画す黄金色の液体に心が踊った。実質「早川雪洲の奥さん概念の香り」みたいなようなものである。*2いきなり肌に噴霧するのは気が引けたので、手近な紙にひと吹きした。

端的に言うと得意な香りではなかった。説明書きにあったピーチの香りより何より先に、鼻腔を刺激する苦い香りが立ち上がってくる。100年愛されるだけの重厚感や気品は伝わって来るのだが、とにかく苦い。なんの香料がそれほど苦く香るのかさっぱりわからないが、ヨリサカ夫人に「もう少し大人になってからね」と微笑まれた気がした。慎ましさもミステリアスさも強い意志も無縁の私には、まだこの香りは早かったのかもしれない。以来、『ミツコ』は戸棚の片隅に鎮座している。

ちなみに先日、ガブリエル・シャネル展の入場者プレゼントでNo.5のアトマイザーをもらった。家に持ち帰り試したはいいが、こちらも「あなたにはまだ早いわよ」とマリリン・モンローが笑っていた。『ミツコ』と比べると軽やかな香りだったが、似たような苦い香りに退散してしまった。本当になんの香料なんだろう。

名香の名香たる理由がわかるような大人になりたいと思った。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A6_(1923%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

*2:絶対に違うと思う。オタクの妄言はインフルエンザ患者の譫言のそれである