郵便配達はベルを鳴らさない

平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

オレンジ農園、終ぞ届かず 映画『ヴァレンティノ』感想

久々に手を叩くくらい私の好みに刺さる映画に出会ったので、珍しく鑑賞翌日に感想を書こうと思う。だいたいいつも観てから感想を書くまで数か月放置してしまうのだが、幸いにして三連休ということもあり、鉄は熱いうちに打て、である。
どれくらい好みに刺さったかと言うと、冒頭30分で「これは私のオールタイム・ベストに入るかもしれない!」と思ったくらい刺さった。

さて、私がルドルフ・ヴァレンティノという名前を知らないはずはない。
早川雪洲の存在を知って彼について調べ始めた頃、必然的にかのイタリアの美男スターの名前は目に入った。なにせ彼らは系統は違えど同じく二枚目、サイレント映画期のスター、銀幕の恋人である。それに大島渚が構想していたという『ハリウッド・ゼン』は雪洲とヴァレンティノの愛憎が主軸だったらしい。ヴァレンティノという男を知らないまま、早川雪洲について調べろと言う方が無理な話である。

「若くして急死し、葬儀には10万人が押し寄せた」なんて伝説的エピソードも目にした中、ヴァレンティノの出演作品も観ておくか、と有名作『シーク』は大学の図書館でレーザーディスクと格闘しつつ観た。レーザーディスクが扱える20代って貴重ですよね。給料上げてくれないかな。嘘です。

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ヴァレンティノは美しかったし、彼に迫られたら全米の女性たちがメロメロになるのもわかる。ただ、この頃のお約束に則って「しかしアラブの族長と英国貴族令嬢の恋愛は人種を超えるためご法度」→「実はシークは白人なのでセーフ!」というストーリー展開にはさすがにずっこけた。早川雪洲には許されていなかった解決方法……!

しかも、調べてみれば、ヴァレンティノには伝記映画があるそうではないか。早川雪洲のほうは頓挫したのに……! ヴァレンティノ役はルドルフ・ヌレエフという有名なダンサーらしい。そうなんだ。気になるかもな~。

……と思って数年。その間にわたしはパリ・オペラ座バレエ団の来日公演にいくつか足を運び、そのたびにどこかしらでヌレエフの名前を目にし、「あれ? もしかしなくても超すごい人か?」と気づき、彼の振付の『白鳥の湖』に感動する。なんならついでにAmazonで『ヴァレンティノ』のBlu-rayを発見して購入した。ようやく鑑賞に至ったのが昨日である。

予告編もまあまあ背後に気を付けたほうがいいシーンがあるので要注意。

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その美貌とカリスマ性でハリウッド・スターへの階段を駆け上っていったルドルフ・ヴァレンチノは、1926年、わずか31歳であまりにも早すぎる死を迎える。冒頭のシーン、葬儀に詰め掛ける無数の熱狂的なファンたちの姿。また、彼の生涯において、「女性」という存在は切っても切り離すことの出来ない存在であった。彼の愛と苦悩の人生に深く関わっていた女性たちの回想を中心に映画は進んでゆく。

バレンチノ(1977)||洋画専門チャンネル ザ・シネマ

※以下、徹頭徹尾ネタバレ大感謝祭です。

まず冒頭のニジンスキーとのタンゴシーンで私が盛り上がってしまった。ベルトルッチの『暗殺の森』には女同士のタンゴが、ケン・ラッセルの『ヴァレンティノ』には男同士のタンゴがある。最高ですね。私はできるだけ早く輪廻解脱をしたいくらい世間が嫌いだが、この事実だけでこの世界のことをちょっと許す気になれる*1

ちなみにヌレエフが振付をしたバレエは観たことがあったが、ヌレエフ本人の容姿を目にするのはこれが初めてだった。私の記憶にあるルドルフ・ヴァレンティノの顔つきよりも、ヌレエフの方が目つきも鋭く男性的な印象を受けるな……と思ったのだが、後々の話の展開を考えるとちょっと残酷な受け取り方をしたかもしれないな、とも思った。

タクシー・ダンサーとして働いていたヴァレンティノだが、そこで出会った女性やその夫と修羅場になり、そのまま逃げるように拠点を移して酒場のダンサーとなる。

私が「オールタイムベスト入りかも」と思ったのは、その酒場のシーンである。
どう考えても喜劇映画スターのロスコ―・アーバックル*2と思われる太った男性が、両手に女性を引き連れて酒場へやってくる。
そこへヴァレンティノと相手役の女性ダンサーがステージへ現れるが――女性ダンサーは酒を浴びるように飲んでおり、足元がふらふらでまともに踊れない。その上、彼女のヒールは折れて、衣装は破れてしまい、そんなダンスを観たアーバックルは大声でヤジを飛ばしてあざ笑い続ける。しまいには彼女は楽屋へと戻っていってしまう。
さて、アーバックルをひたと見据えながら、拳をぎゅっと握って演奏を止めさせるヴァレンティノ。ゆっくりと近づき、アーバックルの傍らにいた女を抱き上げて、ダンスの相手役としてステージに立たせる。
あの、ここからなんて言ったらいいのかわかりませんが、バーナード・ショーは「ダンスとは、水平な欲望を垂直に表現したものだ」という言葉を言ったとされているそうですね*3。それを思い出した。とにかく観てください。
そんなわけでアーバックルに対するとんでもない当てつけがあり、最後にはテーブルに乗り上げたヴァレンティノが、タップダンスがてらアーバックルのビールグラスを蹴っ飛ばしたのでした。この辺、ただハイパー色っぽいダンスだけで終わらない緩急の取り方も良いなと思いました。

その後、あれよあれよとハリウッドのスターへと上り詰めていくヴァレンティノ。「オレンジ農園でも作りたい」と折に触れて言っている彼だが、彼の姿はフィルムへと閉じ込められ、その銀幕の幻影を観たファンたちは狂気的なまでに熱を上げていく。

その一方で、古き良きアメリカらしさ・アメリカの男らしさを好む人間たちは、ヴァレンティノの"男らしさ"に疑問を呈する。なんだったら彼を侮辱するような記事まで出る始末で、激怒した彼は(自身の健康状態が良くないにも関わらず)記事を書いた人間に拳闘での決闘を申し込む*4。……が、本人は現れず、代理で元海軍のボクシングチャンピオンの男が現れる。
まず……(ストーリーの展開上こうなるのは理解も納得もできるので、いちファン的な立ち位置からの感想として)ヴァレンティノにボクシングをさせるな~~~! ボクサーらしく上を脱いだヴァレンティノの体格は、たしかに筋肉もついており、ダンサーらしく引き締まっていてしなやかなのだが、とても拳で殴り合うためのそれではない。一方で、相手は筋肉も脂肪もあるがっしりした厚みのある体格。試合開始時に告げられるそれぞれの体重は60パウンドほど差がある。ちゃんと体重合わせて出直してきてくれ。
始まる試合だが、あきらかに一撃の重みが違いすぎるし、ヴァレンティノは何度もリングに倒れ伏す。なんだったら、意識を飛ばしたのかぐったりしたヴァレンティノを抱えて、相手が「せっかくならこのダンスを楽しみたい」とまるで社交ダンスのごとく踊るシーンがあった。「公衆の面前で、な、なんて辱めを……」と思いつつ、しかしそれでも観ている私の胸中はさまざまな感情が渦巻いて画面から目が離せなかった。

ちなみにこのあと無事にヴァレンティノは相手に拳を叩きこみ、ダンスもやり返した。このあと飲み比べで再試合を申し込まれたが、それにも無事に勝利を収め――ふらふらした足取りのヴァレンティノは『'O sole mio』を口ずさみながら、取り落としてしまったオレンジを拾おうとしたところで、床に這いずったまま息絶える。

ある人の死をきっかけに、さまざまな人の回想で話が繋がれていくの、ちょっと『市民ケーン』っぽいかもしれない、と思った。観たのがだいぶ前なので記憶がおぼろげだが。
それを考えると、ケーンでいうところの『薔薇のつぼみ』は、ヴァレンティノにとってオレンジだったんだろうなとも思う。

パウダーパフ事件については全く知らなかったので(ちょうど早川雪洲アメリカにいない時期なのもあり)、本当にこういうマッチョイズム……と思ってしまった。
現代でもSNSで嘘か誠か知らないが「アメリカでは○○という振る舞いをするとゲイだと思われる」という話や、それを面白おかしくスラングにして「○○なやつはゲイ」などと言う構文だかミームをしばしば見かける。後者については、ネタのつもりにせよ冗談でもそういうことは言うべきではないだろうと思っているが、現代ですらそういうことが言われるのなら、いわんや1920年代をや、である。
映画にするにあたってもちろん脚色も大いにされているとは思うが、ルドルフ・ヴァレンティノというスターは私の思っていた以上に苦悩の多い人生を歩んでいたように思う。

ちなみに実は一瞬くらい早川雪洲の名前が出てこないかと思いましたが、出てきませんでした。

 

余談だが、私の二十数年のこれまでの生涯でのオールタイムベスト(というより、『私の映画の好みはこの作品たちから出来ています!』というような、いわば名刺代わりの作品たち)は以下の通りである。初見順。

ゴッドファーザー
ゴッドファーザー Part2
バルジ大作戦
007 ロシアより愛をこめて
太陽がいっぱい
サムライ
山猫
チート
さらば、わが愛 覇王別姫
ヴァレンティノ

今回『ヴァレンティノ』が増えたが、とにかく60~70年代が多すぎる。おしまい。

*1:ちなみにだが、東京文化会館でヌレエフ振付の『白鳥の湖』を観た際に、有名なあのメロディに合わせてロットバルトとジークフリートが手を取って踊り始めたとき、私の中で何かが歪んだ気がした。あれは『エリザベート』で闇広を観ているときと同じ成分が出ているのだろうか。バレエって同性同士で踊っていいんだ、という衝撃は今も覚えている。

*2:ちなみにアーバックルは、早川雪洲の自伝ではファティ・アルバコと表記されている。最初はアルバコ=アーバックルだと気付かなかった。

*3:あくまでバーナード・ショーの言葉として人口に膾炙しているだけであり、本当に彼が言ったかは不明とのこと。

*4:この場面の前に、重婚罪でヴァレンティノが牢獄に入れられるくだりがある。看守を怒らせたせいでトイレの使用を禁じられてしまい、ヴァレンティノは「男らしさ」を愚弄され、まあなんとも見ていてひどい場面である。しかし、ここでの屈辱的な経験があったからこそ、彼は病を押してまで新聞記者に決闘を言い出すんだなあと思った。

才能を理解するにも才能が要る 映画『アマデウス』感想

私がアントニオ・サリエリという人間を知ったのは、とあるソシャゲであった。
そう、某FGOである。最近は仕事が忙しくてすっかりだが*1、高校生の頃からなんだかんだカルデアのマスターをやっている。
二部でなんだかモーツァルトに執着する情緒不安定なサーヴァントが出てきたな……。アントニオ・サリエリ? そんな人いたんだ。ピンク髪の後輩が「映画にもなっていますよね」と説明してくれる台詞があったが、あいにく当時の私はアラン・ドロンやらロバート・ショウやらクリストファー・プラマーやらを追いかけ、とにかく60~70年代初頭ごろの映画にお熱であった。1984年に公開された映画は当時の私にとってアウトオブ眼中にほかならなかった。

ともあれ、FGOをプレイする中でサリエリはけっこうお気に入りのサーヴァントになったし、舞台やら映画について学ぶ大学生活の中で、ピーター・シェーファーの名前や『アマデウス』という作品名に接することが増えた。いつか観てみようかな~と考えていたら、先日ようやく『午前十時の映画祭』で鑑賞する機会を得た。

 

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商人の父親に反対されながらも音楽家を目指すサリエリは、理解のある父親を持ち「天才」「神童」と評されるモーツァルトを妬ましく思っていた。やがて宮廷音楽家となったサリエリは、下品な笑い声を上げ、女の尻を追い掛け回す男――モーツァルトに出会う。その日からサリエリの運命は狂いはじめる。

午前十時の映画祭15「アマデウス」【4Kレストア版】 || TOHOシネマズ

ちなみに私はモーツァルト関連の知識が乏しいため、ミュージカル『モーツァルト!』(未見)関連でうっすら聞きかじっている範囲のものしかなかった。なので、モーツァルト父が出れば「あっ、市村正親がキャスティングされているあのパパですね」とか「こっちはたぶん山口祐一郎がキャスティングされている司教かな」などという極めて屈折した状況理解をしていた。どういうことだよ。

※以下の私の感想は、あくまでこの映画を観て抱いたものであり、史実がどうであったかについては認識しておりません。

さて、作品自体については、まあそりゃ名作ですよね~~~~! こんなに客席が埋まるわけだ、と思った。

てっきり当時から早々にサリエリモーツァルトの才能に圧されて宮廷楽長の地位が危ぶまれていたのかと想像していたのだが、そうではなかった。むしろ当時、いろいろな企みや陰謀はもちろんあったが、宮廷――というか、皇帝から評価を得ていたのはサリエリだった。むしろコンスタンツェがサリエリに「夫の楽譜を見てほしい」と持ってきたり*2、バリバリに権力あるのはむしろサリエリだし、傍から見てわざわざ妬む要因はなさそうに見える。
……が、皮肉なことに、"モーツァルトと同じ才能"はないのに、周りの人間たちにはない"モーツァルトの才能を理解する才能"はあるサリエリ。まず自分とモーツァルトとの才能の差に愕然として妬ましいだろうし、周りがモーツァルトの音楽を理解できないこともそれはそれで許せないだろうな、と思う。モーツァルトが評価されても、自分が評価されてもどう転んでもしんどい。

いちばん印象に残ったシーンは、やはり終盤、夜通しモーツァルトサリエリが作曲にいそしむ場面である。というより、あの辺の一連の流れ、全体的に「こんなのサリエリの感情がめちゃくちゃになってしまうだろ」という気持ちになった。
わざわざモーツァルトのオペラを観に毎度足を運ぶサリエリ。それはもちろんモーツァルトの才能への嫉妬やら羨望やら、とにかく愛憎入り混じったものが彼を劇場へと連れて行くのだと思う。それに対して、自室の寝台に臥せりながら「僕のオペラを今でも観に来てくれる人は、知人の中ではあなただけだ」「あなたは僕のことを嫌っているかと思っていた。許してほしい」などと言うモーツァルト。う、う、う、ウワ~~~~~~ッ……このときのサリエリの表情が忘れられません。その才能を誰よりも理解し、嫉妬し、焦がれ、殺そうとさえしていた相手から、そんなに純粋な感情を向けられ……、ふたりはもう少しちゃんと時間があれば、しっかり良き理解者として友人になれていたと思う。特にサリエリはたまにモーツァルトに対して明確に父の影を纏う場面がある(レクイエムを依頼するときの扮装など)ので、モーツァルトがそれに気づいていないにせよ、(作品世界のメタ的な構造として)サリエリに父性を暗示させるようなところがあったのかな……などと思う。

作品を観ていて疑問に思ったところ。「あの結末からあの序盤にはつながりにくいのでは?」と思った。モーツァルトの埋葬に至るまで(作品メイン≒過去回想)と、序盤のサリエリの「私が君を殺した」というモーツァルトへの叫びの場面のことである。

話の大枠は、サリエリが若い神父に過去を回想する体で進んでいく。若い神父はそもそもサリエリの名前を知らないようだったし、モーツァルト暗殺説が積極的に巷に流布しているようにも思われない。では、サリエリがあんなに夜中に狂うほどに自分を追いつめているらしいのは、巷の噂で心を病み……というより、本人の自責の念のようなものかもしれない。私の感受性が乏しいのかもしれないが、「別に誰から糾弾されたわけでもないのに、モーツァルトの埋葬から物語冒頭のシーンの数十年であんなに叫ぶくらい思い詰めるのか?」とはちょっと思ってしまった。劇中に明確に描写が無いだけで、ひょっとしたらあったのかもしれない。わからない。
あるいは、「私があの天才を殺した」と思うことによって、モーツァルトという不朽の才能と心中したかったのかな……など思ったりした。あくまで当時皇帝に重用されたのはサリエリだが、時間の流れというふるいにかけられ、結局後世によりその名を濃く残しているのはモーツァルトのほう……というのが、冒頭の神父とのやりとりでも表れていたと思う。

その他に気になった点として、『魔笛』が英語歌詞に聴こえる場面があった。びっくりした。

映画と舞台とではけっこう演出などが違うというような話も見かけたので、舞台も観てみたい。どうやら日本では松本白鸚(当代)がずっとサリエリを演じていたらしい。『ラ・マンチャの男』と同じ方式すぎる。白鸚の『アマデウス』も観たいけどちょっと難しそうなので、新キャストで再演を期待したい。
ちなみに朗読だけならば映像を発見した(当時はまだ九代目幸四郎だったらしい)。

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さて、最後に映画『アマデウス』で個人的に一番評価が高かったことを叫んで終わろうと思う。

サリエリ先生、オペラ鑑賞中に私語をしなくてえらい!!!!!!!!!!*3

*1:とかいいつつ年末年始で二部終章は追いついている

*2:ちなみにここで出てくる『ヴィーナスの乳首』なるお菓子、甘いもの好きのサリエリの見立てだけあって普通においしそう。いつか食べてみたい。

*3:たとえば何かしらの舞台上のパフォーマンスを伴う場面(ピアノコンサートやオペラなど)がある作品で、登場人物たちの心情変化を表すために「観劇中/鑑賞中に喋らせる」という手段が往々にして取られる。フィクションの中であるし、心情表現の手段として仕方ないのだが、普段の観劇で客席内の私語に集中を妨げられている身としては絶対に許せない描写である。この点、『アマデウス』は回想という手法のおかげもあり、サリエリはオペラ本番の鑑賞中に私語をしていない。と、思う。私はそこが一番嬉しかった。

『国宝』映画と原作と、私の信仰と

※映画『国宝』や『ライフ・イズ・ビューティフル』『グレイテスト・ショーマン』に関して肯定的ではないことを述べます。上記の映画が好きな人は退散退散!

 

人間には、”信仰”というものがある。
この場合の信仰とは、「創作物において個々人が求める価値観・倫理観・道理」を指す。

私の友人には「現実がゴミだからこそ、創作の中でくらい美しくあってほしい」という信仰をもつ人間がいる。
「王子様のような男子が後からやって来る”第一印象最悪だけど実はいいやつ”キャラの男に負けるの許せない」という信仰を持つ人間もいる。

私の信仰は何かと言うと、「因果応報」である。

私は作中で他人に迷惑を巻き散らかした人間が、その後どこかで明確に痛い目を見ないと、もう作品自体の秩序を絶対に許せなくなってしまう。作品自体がどんな名作であっても、だ。

ライフ・イズ・ビューティフル』は世にいう名作である。しかし、私は主人公の男が息子を不安がらせまいと振る舞う結果、周りを否応なしに巻き込んでいることがどうしても気にかかる(収容所でわかりもしないドイツ語の通訳を勝手に名乗り出るところなど)

グレイテスト・ショーマン』も人気のある作品だ。しかし、私はバーナムが実はとっくに沈んだ船の債権を担保にサーカスの資金を調達したことが結局咎められないまま野放しにされている点や、上流階級の仲間入りすべくサーカスの出演者たちを邪険に扱う場面があったにも関わらず、彼らに見捨てられることがついぞなかったことに、「なんでや! 痛い目見ろや!」という極めて率直な感想を抱いた。


さて、話はようやく『国宝』である。

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後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。
この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、
上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。
そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。
正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。
ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく...。
誰も見たことのない禁断の「歌舞伎」の世界。
血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。
もがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。
何のために芸の世界にしがみつき、激動の時代を生きながら、世界でただ一人の存在“国宝”へと駆けあがるのか?
圧巻のクライマックスが、観る者全ての魂を震わせる―― 。

父親が原作を賞賛していたので、ひとまず上映中の映画を観に行くか……とプレミアムシートを予約した。

鑑賞中、さまざまな所感が心を渦巻くも、「この話は、梨園の血を持たない喜久雄が、周りの犠牲という名の血を啜って国宝になるまでの話――という立て付けなのかな?」と仮説を立てた。娘の綾乃を公衆の面前で無視し、先輩役者の娘に色仕掛けをし、「悪魔と取引した」なんてまるでファウストじゃないか……と観ていた。

さて、終盤である。めでたく国宝になった喜久雄が取材を受け、写真を撮影する場面。彼に対し、不意に「藤駒という芸者を覚えているか」と問うカメラマンは、成長した綾乃だった。

ここで私は「来ました!!!!!! これまで犠牲にしてきた血が!!!! これまでの喜久雄の””業””が!!!! 突きつけられます!!!」と内心手を叩いて大喜びしていた。因果応報である。「あなたを父と思ったことなどない」など、憎しみをぶつける綾乃。いいぞ、いいぞ。

――が、しかし、である。ふと、綾乃の語り口が変わっていく。「でも、花井半次郎を観ていると、お正月とお盆がいっぺんに来たような、まるで”こっちにおいで”と手招きされているような、そんな気持ちになって」

……ちょっと待ってね、ちょっと待ってね。

「……お父ちゃん、日本一の歌舞伎役者になったね」

アカ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ン‼️‼️‼️‼️‼️‼️‼️

私はここで、今までの「血を啜って国宝に成り上がる話」「因果応報の発動」という見立てを綺麗にひっくり返され、何も消化しきれず、エンドロールに突入した瞬間に席を立ってしまった。誰の視界も遮らずに出られる端の席でよかった。

ある意味で喜久雄の啜ってきた”血”(彼のキャリアのために犠牲とされた存在)の代表ともいえる綾乃が、喜久雄を肯定していいのだろうか。

百歩譲って、花井半次郎の芸を肯定するのはいい。父として劇中ほとんどロクなことをしていないと思われる喜久雄が、その父親としての在り方すらごっそり削って何もかも注いだのが”花井半次郎”である。むしろ、父親としてロクなことをしなかった上に歌舞伎役者としても鳴かず飛ばずだったら悲惨である。

だが、しかし、しかしである。「あなたを父だと思ったことはない」と言った綾乃が、そのまま「お父ちゃん」と喜久雄を呼んでいいのだろうか。”花井半次郎”という役者や芸を認めても、父親として喜久雄を呼ぶ(=喜久雄を父として認める)意味が理解できなかった。

役者としての技量を認めることと、父として認めることは全く別次元の話では?  凄まじい芸に魅了されて、過去の恨み辛みまで全てどうでもよくなったのか? そんなことある? では芸がすごければ何をしても許されるのか?

なんか急に「国宝になれたし、娘にも”お父ちゃん”って呼んでもらえてよかったね!」に着地したように見えてしまうんだが……。

……などということを、私は帰りの電車でぐるぐると考え込んでしまった。

身近で『国宝』を観た人間から上記のような感想が出てくることはなかったため、きっとわたしの信仰の問題なのだろうと思う。

私は綾乃に「世間がどれだけあなたの芸を賞賛しても、私はあなたを絶対に許さない」くらいの勢いのことを言ってほしかったです! 国宝という高みに至った喜久雄にはそれくらいの大きく重い十字架を背負っていてほしかった。因果応報教。

 

さて、しかし私の父親が原作を読んでやたら「面白かった」「あれ読んだら歌舞伎気になる」などと言っていたので、原作も読んだ。

結論から言うと、私は原作の方が好きである。

映画は尺の都合であろうが、「二人で最初に舞台立つ時のデコピン、あそこで終わりなのか……他のシーンで回収できそうなのに……」だとか「万菊の”丹波屋さんの見立てだけあって綺麗なお顔だこと。役者をやるには邪魔も邪魔”のあの意味深な台詞、伏線回収あったか?」(わたしの読解が浅かった可能性はある)「女への色仕掛け、怒られてほしい」など、さまざまなモヤモヤがあった。

原作ではそのあたりが綺麗に回収されていた。なんなら色仕掛けは喜久雄が本人にゲロって、「騙すなら最後まで騙してよ」と怒られていた。それはそうだ。

綾乃との関わり方も、小説版の方が納得がいく。印象的だったのは火事の場面である。自分の娘が火傷を負ってしまい、綾乃はふと喜久雄を「いつもお父ちゃんばっかり得している」と糾弾する。あとから謝罪の手紙があった、という描写はあったけれど、きっと「日本一の歌舞伎役者にしてほしいと悪魔に頼んだ」と言ったときの喜久雄が、綾乃にはずっと残っていたんだと思う。

個人的には映画のあのやりとりよりも「普段は家族として大きなヒビも見えずに関係を保っているが、ふとしたときに無意識のクレバスが見えてしまう」ほうが刺さった。芽は小さいが、根が深い。何かの拍子にふと足を滑らせれば、果てしない深さの心の裂け目が口を開けている。

私は(途中まで)映画『国宝』を前述の通り「周りの生き血を啜る話」と解釈していたが、原作では週刊誌が「花井半次郎の周囲には不幸ばかり起きる」というような記事を書き立てていた。映画はそちらの着眼点に寄せたのかもしれないし、あるいは結果的にそっちに寄ったのかもしれないし、もしくはわたしの解釈がたまたま似ていたのかもしれない。あれですね、皇帝フランツ・ヨーゼフの身内は非業の死ばかり、みたいな。


ちなみにですが、私は歌舞伎に詳しくない。しかし全く観ないわけでもない。年に数回足を運ぶ程度の永遠のビギナーである。どれくらいのビギナーかというと、友人に『絵本太功記』の内容を訊ねられて「秀吉がお風呂を沸かしてくれる話」と答えるくらいの解像度の粗さである。
確か初歌舞伎は数年前の桜姫東文章だった(ちなみに上の巻は東京都の自粛要請と被ってチケットがおじゃんになり、下の巻しか生で観ていない)。
私は歌舞伎役者を大河ドラマ経由で知ることが多いので、いわゆる仁左玉コンビを観て「後醍醐天皇正親町天皇だ」と思った。
ちなみに七月の歌舞伎座鬼平犯科帳では円融天皇がキエ~~~!!って叫んでてびっくりした。薩摩の剣術って本当にキエーって叫ぶんですね)

映画で出てきた『曽根崎心中』『藤娘』『鷺娘』あたりは観たことがない。
ただし原作に出てきた『女殺油地獄』『廓文章吉田屋』はシネマ歌舞伎で観たし、何より『菅原伝授手習鑑』はこの前通しで観たぞ~! と思って嬉しくなった。何はともあれ、『国宝』を観てもっといろんな歌舞伎が観たくなったのは確かである。
(しかし二代目花井半次郎、菅原伝授手習鑑の松王丸と曽根崎心中のお初をやるってどんなタイプの役者なんだろうな)


ところで『国宝』原作の監修をされている児玉竜一先生、歌舞伎座のイヤホンガイドやっていただけませんか? 5,000円とかでも全然払います。おわり。

韓国ミュージカル版『ファントム』を観た

このブログでは主に映画とか早川雪洲の話をしてきたが、今回は少しばかり毛色を変えて、ミュージカルの話をしようと思う。
とはいっても映画館で観てきたので広義で言えば映画かもしれない。謎理論。

 

さて、私は『オペラ座の怪人』が大好きである。
はじまりは小学生の頃、金曜ロードショーで2004年映画の吹替版を途中まで観たこと*1。なぜなら翌日が土曜授業だったからである。かなしい。
その後、時は流れ、たまたま高校のクラスメイトが2004年映画版が好きで、DVDを持っているとのことだったので借りた。無事にのめり込んだ。近所で劇団四季が公演をやると言うので、そのクラスメイトと一緒に観に行った。私だけそのまま、真っ逆さまにハマってしまった。
気づいたらロンドンに行っていた。気づいたら東京にも居た。大阪にも居た。横浜にも居た。『ラブ・ネバー・ダイ』も通い倒した*2。私は自らの信仰を問われたら「『オペラ座の怪人』……、ですかね……」と答えると思う。

そんなわけで私はアンドリュー・ロイド・ウェバーの作った『オペラ座の怪人』に魂を売っているオタクである。
しかしながら(オペラ座の怪人好きの諸兄には釈迦に説法ではあるが)、ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』を基にしたミュージカルって、大きく3種類あんねん。

  1. ケン・ヒル
    最も原作準拠。たまに来日公演をしている。
  2. アンドリュー・ロイド・ウェバー(ALW)版
    最も知名度が高いと思われる。ウエストエンドやブロードウェイ(かつて)で上演されていた版。劇団四季もこちら。
  3. コピット版
    怪人(ファントム)の出自や、ヒロインであるクリスティーヌとの出会いに焦点を当てたストーリー。宝塚や城田優演出版など。

今回感想を書くのは……③コピット版の韓国公演の映像を鑑賞した感想です! 前置きが長い!

ちなみに私は残念ながらコピット版を舞台で観劇したことは……ないです! チケットが取れなかったり私生活が忙しかったりでなかなかご縁が無い。
一方で円盤は持っており、1990年ドラマ版(チャールズ・ダンスとテリー・ポロのやつ)と雪組ファントム(望海風斗・真彩希帆コンビ)については何度も観ている。城田優演出版の円盤は所持していないが、友人と上映会をして一度観せてもらった(加藤和樹エリックと愛希れいかクリスティーヌのほう)。
というわけで「コピット版のストーリーは理解している。コピット版の中での各バージョンの細かな違いまでは踏み込んで把握・記憶できていない」「ALW版に馴染みがあるので、そちらとの差異も理解している」というような状態で鑑賞した。
私がこれから書く感想の中で、ALW版を引用・言及する場合もあると思うが、あくまで解釈のとっかかりとして言及するだけであり、優劣をつけたいとかそういう意図は全くありません。どっちも好きです。よろしくお願いします。

 

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19世紀末のパリ、オペラ座。醜い顔を仮面で隠し、地下に潜む青年、エリックは、“ファントム”と呼ばれ恐れられていた。ある日、歌手を夢見るクリスティーヌの歌を偶然聞いたエリックは亡き母の姿を彼女に重ね、密かに個人レッスンをするように。次第に才能を開花させオペラ座での大役を任されるクリスティーヌ。そんな彼女にオペラ座パトロン、シャンドン伯爵は愛の告白をするのだが、プリマドンナの嫉妬と陰謀で思わぬ悲劇が人々を襲う。

ファントム - LINEUP|『韓国ミュージカル ON SCREEN』公式サイト

 

以下、ネタバレ含めて感想を書いていきます! ざっくり時系列。
まとまりは、本当にないです。思いついたままに書き散らかしています。

 

来場者特典でいただきました

今のうちに「いつも思うこと」(しかし改めて文字数を割いてツッコミをするのも野暮に思われること)をまとめて書き記しておきます。

  • キャリエールは既婚者なら……いろいろ、ちゃんとしよう!
  • エリックは仮面に隠れていない部分がそんなにカッコいいなら大丈夫です*3

以上、真面目な感想に入ります。

 

1幕

舞台背景はがっつり映像を使っていました。クリスティーヌの髪型が前髪あり+ハーフアップ風で、ちょっと現代っぽさもありつつ可愛い。
ニコニコ歌いながら楽譜を売る姿、完全にディズニープリンセスのそれ。そのうち小動物が寄ってきて一緒に歌い出しそう……と思ったらシャンドン伯爵がやってきた。
クリスティーヌ役の方(イム・ソンヘ)、すこしお姉さんに見える……? と思ったので帰ってから調べたところ、キャリアを積んでいらっしゃるソプラノ歌手の方だそうです。ど、道理でこの美しい歌声……!

一方でファントム、ことエリック。彼の領域である地下のシーンは緑色っぽい照明で演出されているようです。ディズニーっぽいな……(ディズニーの悪役は緑とか紫のカラーリングが多いと勝手に思っている顔)
そしてエリックは仮面専用キャビネットのようなものを持っている。羽を広げた鳥のようなデザインのものもあれば、ミュシャの『女王メディア』のポスターの髪飾りのようなもの、黒い仮面などもある。
これ、他のコピット版のエリックもそうですよね? なんだろう、オペラ座の舞台衣装や小道具から拝借しているんだろうか。お洒落さんなのか?

文化大臣にお金を積んでオペラ座の支配人に収まるアラン・ショレと、その妻のカルロッタ。
ふたりとも端的に言えば「いやなやつ」ではあるのだが、夫婦仲は良くてかわいい。舞台に上がる直前の「ファイティン!」のくだりが可愛くて大好きです。このふたりはオペラ座から隔離して仲良く暮らしているのを眺めていたい。エリックやクリスティーヌに危害を及ぼさなければ可愛いんだよな~~~~!
ショレとキャリエールが支配人室で話している最中、部屋の戸棚の上にあった石膏の胸像が静かにくるくる回っていて笑った。1990年ドラマ版よろしく落ちてこなくて良かった。

地下でエリックとキャリエールが話すシーン。キャリエールがエリックに対して話す台詞が全部敬語で字幕がついていて、個人的には少し違和感。もともとの韓国語の台詞がそうなのかもしれないし、あるいは私が「キャリエールはエリックの父親」というのを知ったうえで観ているからそう思うのかもしれない。
あと私は韓国語の素養が全くないのだが、「なんだ? あの声は。僕の顔よりもひどいぞ」「新しい支配人の妻のカルロッタだ」というやりとりのとき、エリックがオーマイゴッド……って言いました? そこ英語なんだ、と思ってちょっと面白かった*4

そして、シャンドン伯爵の名刺片手にオペラ座を訪れ、衣装係になり、歌いながら仕事に励むクリスティーヌ。やっぱりディズニープリンセスかもしれない。その歌声に惹かれるエリック。クリスティーヌが纏うショールの動きとエリックのマントの動きがリンクする演出、いいな……! と思いながら観ていました。
勇気を出して話しかけるエリック。初手が「僕は君のファンで……」は怖いだろ! と思いつつ、なかなかがんばっているのではないでしょうか……!

正直このエリックとクリスティーヌ、だいぶ幸せに結ばれる確率は高かっただろと観ている最中からずっと思っています! これを書いている今もずっと思っています! なんだ!? 我々はどこかで分岐を間違ってあの結末を引いてしまったんですか!? エリックとクリスティーヌのピクニックENDはどこにあるんですか!?

『You Are Music』の場面を私は今まで「エリックとクリスティーヌの美しいデュエットの場面」という認識でいたのですが、今回のこの韓国公演版は、さらに踏み込んできたような気がしました。どうだろう。今までに他のバージョンを観た私の記憶が霞んでいるだけかもしれません。
今回映画館で観ていて、「え、これ、今……キスするんですか?」とこちらが動揺するくらい顔が近い数秒間、「何? だ、抱きしめたり、するんですか?」と心がざわつく数瞬……のようなものが何度かあり、私は良い意味でいたく困惑しました。
ふとクリスティーヌと近づいた瞬間に、エリックがはっとしてレッスンに意識を戻す、というような流れに……こう……この余白とあわいの美しさに心をつかまれる私と、「いやここでキスできたらエリックとクリスティーヌのハッピーエンドでいいだろ!」と叫ぶ私が居ました。落ち着け。
なんというか、ALW版の『The Music of the Night』をデュエットにしたらこうなるのかな……などと思いました。これ以上に上手い表現が思いつかない。
でもこの『You Are Music』の寄せては返す波のような美しい音色、繊細に重なり合うエリックとクリスティーヌの歌声って唯一無二ですよね、本当に。

ちなみにエリックとクリスティーヌが歌のレッスンをしている最中、阿鼻叫喚のカルロッタが出ているのは、『アイーダ』(カツラに虫)、『椿姫』(お盆にグラスが接着)。
コピット版、1幕のエリックはわりとカルロッタへの嫌がらせが穏健派ですよね。それだけに後々のカルロッタの所業がなかなかえげつなく見えるわけですが……。

ビストロのシーン。お久しぶりのシャンドン伯爵。ガールズたちに囲まれつつ、完全に「心ここにあらず」感が凄まじい。
そして現れるクリスティーヌ。ピンクのドレスがかわいらしい。やっぱり彼女のドレスを用意したのって、1990年ドラマ版と同じ方式で行くとエリックなんですかね。気になる。
このビストロのシーン……実際に現地観劇していたとしたら、絶対にオペラグラスでどこを観るか迷うだろうな~~と思った。まずクリスティーヌは観たい。クリスティーヌの歌を聴いたカルロッタのリアクションも観たい。
そして……エリックがいる! 舞台映像なのでちゃんとエリックもピンポイントで写してくれており気づけたのだが、おそらく私の注意力では確実に初回観劇でエリックの存在に気づかない。シャンドン伯爵とクリスティーヌが手を取り合って踊っている瞬間のエリックの表情とか見たすぎる。見たい。
ちなみに、エリックのレッスンのことを当然知らないシャンドン伯爵が、クリスティーヌに対して「君はレッスンなんかしなくても素晴らしい歌声だ」というようなことを言うの、つらいね……。

ビストロで大成功を収めたクリスティーヌと、彼女を送り届けるシャンドン伯爵。ビストロはオペラ座の向かい……という台詞があった気がするのだが、その距離でも車でクリスティーヌを乗せていくのか。シャンドン伯爵自身は家まで帰るんだろうけど、貴族ってすごいや。
シャンパンで乾杯するふたり。クリスティーヌに恋するあまり『雨に唄えば』のジーン・ケリーよろしく街灯に手を回してぐるりと回るシャンドン伯爵。
……と、それを見てるエリック~~~~~~~~! あんまりにかわいそうである。
ところで、コピット版は舞台だと「実はシャンドン伯爵とクリスティーヌは幼馴染」という設定がない気がする(1990年ドラマ版だとビストロの夜に幼馴染カミングアウトがあった気がする)。

……その後、クリスティーヌがティターニアとして歌う夜。楽屋でギリギリまでレッスンをしている。ハートブレイク案件があったにも関わらず、クリスティーヌの歌のレッスンは続けるエリックは偉いと思う。
ちょうど歌っているのは「ああオベロン」の、あの(あとでクリスティーヌが声が出なくなる)箇所である。ここで先に歌わせておいて、「本当はご覧の通りクリスティーヌはバッチリ歌えるのだが、カルロッタのせいで声が出なくなった」というのを印象付けるつくりが上手いと思った。
クリスティーヌの楽屋には、入れ替わり立ち代わり人が現れる。エリックの次には、赤い薔薇を携えたシャンドン伯爵。そして次はカルロッタ。
シャンドン伯爵がクリスティーヌに薔薇を渡す瞬間をばっちり見ていたエリックだが、その後、彼はいつまで楽屋裏の鏡に居たんだろうか。カルロッタがクリスティーヌにハーブティーを飲ませるころにはもう居なかったのは確かである。やっぱりシャンドンショック(とは)ですぐ帰っちゃったのかな……。もう少しエリックが粘っていてくれれば防げたかもしれない災難があった。かなしい。

そしてクリスティーヌのティターニア。声は……当然出ない。
先ほども言ったが、エリックはカルロッタへの嫌がらせで喉は狙わなかったが、カルロッタはクリスティーヌをぺしゃんこにするために真っ先に歌声を狙ったのが容赦ないと思う*5
シャンデリアを吊るすロープを切って、舞台が混乱しているうちにクリスティーヌを連れ去るエリック。シャンドン伯爵が追いすがりはしつつ、わりとぬるっと連れ去りに成功していた。

 

2幕

クリスティーヌを連れ去ったエリックが、舟で地下水路を漕ぐ場面から。
「君が女王かのように仕えよう」「僕を見捨ててはいけないよ」的な歌詞があり、声自体は穏やかで、まるで子守歌のようなのに、こ、怖すぎる……! と思った。クリスティーヌがひどい目に遭わされて、ここからエリックも本格的にその「外を知らぬ純粋さ」ゆえに狂気に走ってしまうのかな、と思った。
舟が紫を基調とした花で彩られており、「クリスティーヌを地下に迎える日を夢見てデコレーションしていたのか、それともそもそも日頃から趣味で装飾しているのかどっちだろう」と思った。どっちでもかわいい。でもその舟のまま、カルロッタに復讐するためにちょっと厳つい黒い仮面でまた出かけていくエリック、ギャップが……!

エリックの母・ベラドーヴァの肖像画は特にクリスティーヌに似ているというわけでもなさそう。姿かたちまで瓜二つ……というより、声がとても似ていた、ということなんだろうか。

キャリエールによる過去の回想、バレエシーンがとっても良かった!
私はバレエ経験者でもないし、細かい振付に詳しいわけでもなく、技の名前すらよくわかっていない。たまに東京文化会館に足を運んでは「すっげ~~きれいだった」という感想を抱いて帰ってくる人間だ。
それでも、観ていて「ベラドーヴァ(キム・ジュウォン)……ものすごく踊れる方なのでは!?」と思い、調べたところおそらく本職のバレリーナの方っぽい。すごい。アイドルとソプラノ歌手とバレリーナがいる舞台、異種格闘技すぎる。
特にベラドーヴァがエリックを産んだ後、徐々に寿命が尽きてきたらしいあたりの踊りに胸がぎゅっとした。何度も何度も幼いエリックの方に手を伸ばすさまに、「本当にエリックのことを愛していたんだな……」と目元がじんわりした。私が子持ちだったら大号泣していたかもしれない。
エリックとクリスティーヌが歌で表現される愛なら、ベラドーヴァとキャリエールのそれは踊りなんだな、と思った。
(そういえばエリックとクリスティーヌのHomeのところかどこかでマントの動きのシンクロについて述べましたが、ベラドーヴァとキャリエールも動作のシンクロ演出あった気がします。対比だ~)

カルロッタの始末の仕方、アグレッシブすぎません? 何あれ。びっくりした。カツラに虫仕込んだりグラスをお盆にくっつけていたエリックはどこへいった。クリスティーヌに危害を加えられたからもう手加減無用ってことですか?
確か宝塚や城田優演出版ではナイフで刺していたような気がしたのだが、韓国版は……あれは、電気ショックですか? びっくりした。今まで観たミュージカルの中でいちばん変化球な殺害方法かもしれない*6

エリックとクリスティーヌのピクニックシーンって、いろいろと苦しくなりますよね。胸が。
おそらくカルロッタ殺害帰りのエリックが戻ってくる。慣れない殺人をして動揺しているらしい……なのに、こう、目を覚ましたクリスティーヌとの空気感が、両片思いの高校生みたいな初々しさみたいなのは何なんだ。温度差よ*7
ピクニックへとクリスティーヌを誘い出したエリックが、「迷子になってはいけないから」と腕をクリスティーヌに差し出す場面、いいですよね。クリスティーヌがそっと手を伸ばすと微笑むエリック、かなりいい。もうこのピクニックの場面で全てを終わりにしませんか?
「ここは森なんだ」とエリックに紹介されて、一瞬「……?」という反応をするクリスティーヌ。観客からすれば舞台セットは等しく舞台セットであるため、作品世界のリアリティラインが不明なのだが……おそらく彼女の反応からするに、エリックの言う「森」は思いっきり作り物らしい。オペラ座の舞台セットでも拝借したのだろうか。エリックの世界を察したのか、クリスティーヌはその後すぐさま「ええ、森なのね!」と反応を返す。やさしい……。
その一方でクリスティーヌは、森のセットを動かしているひとたちに「あのひとたちは?」と言う。「誰もいないよ」と返すエリック。歌舞伎あたりで言う黒子さん的なやつの扱いですね! 物理的にはいるけど舞台演出上はいないことになっているやつだ! エリックの世界は本当にこう……舞台の構造というか、すべてが演出で、彼はオペラを通してでしかよその世界を見られなかったんだな、と悲しくなった。
なんだかんだ豪華なバスケットが用意されているピクニック地点。エリックとクリスティーヌがグラスで乾杯するのを見て、「もしかしてエリック、ビストロの夜にラウルとクリスティーヌがふたりで乾杯するのを見て、それを真似しようと……?」と深読みが発動してしまい、勝手に哀しくなりました。

歌ってほしいというエリックに、「もし歌ったら、私のお願いを聞いてくれますか?」と言うクリスティーヌ。エリックはすぐに「だめだ」と言うけれど、願いの内容を聞く前に拒否する辺り、もう何を言われるか薄々察していそうなのが辛い。そして「もうすぐ雨が降りそうだから……」なんて言ってピクニックを切り上げようとするけど、地下に雨は降らないんですよね~~~~! すべてが辛い。
そしてクリスティーヌの『My True Love』……。夢に見た天使の歌声であんなに歌いかけられたら拒絶のしようがない。しかも「愛しい人が自分の顔を受け入れてくれるかもしれない」なんて希望がちらついてしまったらもうどうにもできない。クリスティーヌに手を握られてあんなに歌いかけられて、エリックがその長身を折り曲げて足元ふらっふらになっているさまが……私はその後の悲劇を知っているのに「いや、うん……それは、素顔を見せてしまうよね……」と思ってしまった。

素顔を見せた結果なにが起こったか、もう言うまい。何も知らずに不意の事故で見て悲鳴を上げてしまうのと、「受け入れられるはず」と思ったうえで自ら進んでその素顔を見て逃げてしまうのと、どちらにもそれぞれの残酷さがある。

さて、地上ではシャンドン伯爵が「ぜったいにこの楽屋の中なんだ」とクリスティーヌを必死に探し続けている。鏡の裏側にたどり着いて隠し扉をたたくクリスティーヌ。
「逃げてしまったからエリックを傷つけてしまったかもしれない。驚いてしまっただけで、愛しているって伝えないと」と言う彼女。
じゃあそもそも逃げないであげてくれ……! と思ってしまうのだが、エリックとふたりで誰もいない地下と、シャンドン伯爵やキャリエールといった見知った人たちがいる馴染みの場所ではパニック度合いが違うだろうな、とも思った。楽屋まで戻ってようやく安心したと同時に、エリックのことも考える余裕ができたのかもしれない。とても人間的な反応だと思う。
ここまで書いて気づいたけどここのエリックとクリスティーヌってやっぱり愛し合ってますよね? どうしてこんなに今悲劇的な展開になっているんだ? そんなことある?

そしてやはりクリスティーヌのあとを追って地上に来たエリック。腹を撃たれて息も絶え絶えになりながら、キャリエールに「土の中に深く埋めてほしい」と告げるの……あ、あんまりだ……。

ところでラスト、エリックがキャリエールに撃たれた瞬間、スローモーション使いましたね? ドラマチックに演出したいのはわかるんですけど、舞台映像をまるで舞台をそのまま観ているかのような臨場感で見たいと思っている派閥なので、ちょっともったいないな! スローモーションなしで観たかったな! と思いました。

しかしほんとうに『You Are Music』の旋律は本当に美しいし、ラスト、エリックの右手をキャリエールが、左手をクリスティーヌが包んで、そのクリスティーヌにはそっとシャンドン伯爵が寄り添っている……という画がほんとうによかった。エリック、ちゃんと、今わの際には愛されていてよかったな……。

 

カーテンコール

カーテンコールまでが本編です。

エンドロールが始まったからってよっぽど火急の要件がない限り退場しないほうがいい!!! 私はカーテンコールで絶叫しそうになところを、梅干しみたいな顔になることでなんとか我慢しました!!
あまりカーテンコールの幸福成分までインターネットに気軽に放出しないほうがいいのかもしれないな……と思ったので今は詳しくは書きませんが(上演期間が終わったら追記するかもしれません)エリックとクリスティーヌは一生幸せでいてください。
あとはコピット版は意地でもエリックの素顔は見せないスタイル、いいと思います! 好きです!

 

 

思い出すがままにそのまま全部書いていたら1万字近くになってしまった。この辺りで筆を置こうと思います。ここまで読んだ方がいたら本当にお疲れさまでした。
韓国にいつかミュージカル観劇遠征に行ってみたいなあ。

*1:2幕地下まで観た覚えはある。そこまで観たなら最後まで観ろよと今では思う

*2:私は『ラブ・ネバー・ダイ』を、あくまでオペラ座の怪人本編のアナザーストーリーとして愛好している。「『オペラ座の怪人』は余白を残した終わり方であり、そこから観客や演者の数だけ"その後"が存在する」というふうに私は思っているし、それが魅力の一つだと思っている。だから、その数多ある想像や世界線のひとつとして『ラブネバ』が存在するのは個人的には大歓迎である。しかし、"続編"としてラブネバを出されると、あたかも「『オペラ座の怪人』の10年後は『ラブネバ』になるのが公式です」と言われているようで、さすがにそれはちょっと……と思っている。

*3:……と、この物語を「作品」として観ている客である私は勝手に思うのですが、演者の見目の良さと作品世界内のキャラクターの見目の良さは完全にイコールではないだろうし、そもそも仮面の下がどのような状態なのか特にコピット版の演出では明示されないので、こういう感想もまたちょっと自分が持つのはおこがましいとは思っている(同じ感想を持つ他の方を攻撃する意図はないです)。もし仮に本当に地上に出てやっていける容姿だとしても、エリックにとっては生まれてからずっと彼の世界というのは地下で完結しているし、キャリエールは外に出すなんて思いもしないだろうし、誰も「外」という発想をまず思いつきもしないというのがまた悲劇だと思う。カルロッタの声が地下まで響き渡るシーンで、キャリエールに対して「僕も連れて行ってくれ」なんてエリックは言うけれど、きっと本当の本気ではないんだろうな……。

*4:もともとが英語で上演されているし、四季のオペラ座だって「アイラブユー」って言ってるしな! と思ったが、そもそもこのオーマイゴッドが私の空耳だったらどうしよう

*5:カルロッタの『This Place Is Mine』で、「美しい女優を育てるのは私」という歌詞のところでナイフのようなものを持っており、怖くて心が泣いた。育てる気……ないだろ!

*6:おそらく私の夢の中でフランツ・ヨーゼフよろしく『悪夢』が上演されるとしたら、たぶん親戚一同の代わりにミュージカルのキャラクターの死にざまでも出てくるんだと思う。間違いなくその中にこの韓国版ファントムのカルロッタは登場すると思う。とにかくそのくらいびっくりした。

*7:気づいたけど、コピット版のクリスティーヌってエリックがブケーやカルロッタを殺したこと知らないのでは? 彼女視点だと「私に歌を教えてくれたマエストロ」「地下で暮らしている」でしかないことに気づいた。エリック=ファントムであることはキャリエールから聞かされているので、ひょっとしたらブケーの件や数々の公演妨害は思い当たっているかもしれないが、カルロッタの件は知りようがないと思う。ひえ~。

手持ちの早川雪洲関連書籍を振り返る

早川雪洲に関する本を図書館で借りたり本屋で買ったり……をちょこちょこ行い、手元にある書籍について列挙してみようと思う。そんなに数は多くない。順不同です。
書誌情報がわかりそうなURLなどを貼っておくので、詳しいことが気になる方はそちらへどうぞ。

 

 

早川雪洲を主題とする文献



セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲

bookclub.kodansha.co.jp

著者の方、最近早川雪洲を取り扱う番組でお名前見かけますね(知恵泉早川雪洲回に出演されていたし)。
私が早川雪洲という俳優に興味を持って最初に手に取った本である。先行文献への言及や検証もたくさんある。この本を読んでから、他の(後で紹介するような)本を読んで……またこの本に戻って……という読み方を私はした。後ろに年表もあるので、雪洲について何か確認しようと思ったらまず開いている。
大型書店でたまに置いてあるのを見かけるので、雪洲関連の書籍の中ではいちばん購入しやすいと思う。

 

聖林の王 早川雪洲

出版社側の正式なHPみたいなのが見つけられなかったのでこちらを。

早川雪洲の日本語自伝(『武者修行世界をゆく』)をベースにしつつ、雪洲の再婚相手の方やお子さんにも直接話を聞かれているよう。

 

 

鶴子と雪洲――ハリウッドに生きた日本人

www.kinokuniya.co.jp

こちらも先ほどと同様、出版社側の正式なHPが見つけられなかったのでこちら。

早川雪洲の英語自伝(『Zen showed me the way』)をベースにしている印象。青木鶴子の前半生にもかなり軸足を置いていることや、海外の資料や専門家を引いているアプローチが多い(気がする)のが特徴。

 

 

早川雪洲 房総が生んだ国際俳優

ci.nii.ac.jp

こちらも先ほどと同様以下略。

戸籍・新聞記事・その他諸々の記録ベースでの記述が中心。
早川雪洲の伝記……というより、彼の人生を文献等の裏付けを取りつつ実証する、ような書きぶり。

 

 

武者修行世界を行く

cir.nii.ac.jp

自伝です!

「自分のことを自分で書くのは、どうもテレくさくて、ややもすると自慢話になるし、また、ときにはオノロケをすることにもなるかもしれない」(p7)と本人が述べている通り、自己演出大感謝祭のような内容です。決闘話やら自分の肝が据わっていたエピソードやらがたくさんあります。
たとえば、本編の一行目からいきなり「私が単身、アメリカへ旅立ったのは一九一〇年のこと、二十歳の血気と若さに溢れていた時であった」(p9)と年齢詐称から始まる*1。さすが早川雪洲ナチュラルな1890年生まれアピールをを平然とやってのけるッ! そこに痺れる憧れるゥ!
とはいえ、本人の価値観や考え方が感じ取れるのは、なかなか面白いと思う。

ここだけの話だが、国際問題に発展した彼の出世作、『チート』の一件については全く触れられていない。いろいろと考えさせられるものがある。

 

 

 

早川雪洲について言及がある文献

 

ハリウッドの日本人 「映画」に現れた日米文化摩擦

books.bunshun.jp

ハリウッド映画における日本/日本人について書かれたもの。

早川雪洲については一章まるまる割かれており、長男の雪夫氏へのインタビューもある。

 

 

イエロー・フェイス ハリウッド映画にみるアジア人の表象

publications.asahi.com

これはハリウッド映画におけるアジア人の表象について書かれている。同じ著者の方で、アラブについての表象の本もあったはず。

早川雪洲についてもある程度のページにわたって言及がある。個人的にはアンナ・メイ・ウォンのエピソードが印象に残っている。

 

 

映画の黄金時代 銀幕のスターたちは語る

www.kinejunshop.com

スターたちへのインタビュー集。早川雪洲もその中のひとり。

スターにとって所得税って相当大きい存在なんだなあという印象。
それと、人物紹介で早川雪洲の生年が1889年となっており、雪洲の年齢サバ読みが功を奏しているなと思う。彼は1886年生まれである。

 

 

フランス映画史の誘惑

shinsho.shueisha.co.jp

タイトルそのまま、フランス映画史に関する本。

初期フランス映画に大きな影響を与えた作品として、早川雪洲出世作である『チート』が挙げられている。

 

 

ハリウッドをカバンにつめて

cir.nii.ac.jp

サミー・デイヴィス・ジュニアの本。
すでに別記事で書き散らかしたので、詳しくはそちらをどうぞ。

tochterdeskino.hatenablog.com

 

 

ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌

cir.nii.ac.jp

オペラ歌手、田中路子の評伝。

彼女は『ヨシワラ』で雪洲と共演している。そこから一時期は交際関係にあったのだが……。
……ええと、ここに記載されている早川雪洲のエピソードは、かなりひどいぞ!
早川雪洲を追い始めて6年とかそこらになる私でも、さすがにドン引きするような女性関係の逸話が複数載っていました。早川雪洲を主題にした評伝には載っていないと思われる、なかなか癖の強い逸話が読めます。
生涯、雪洲を妻として支え続けた青木鶴子もすごいと思いますが、田中路子の国際人としての矜持もすごいと思います。
気になる方はぜひ。

 

 

素顔のハリウッド

ndlsearch.ndl.go.jp

早川雪洲とだいたい同じ時期にハリウッドで活躍した、上山草人の自伝。
私の手元には書籍があるのですが、どうやら登録したら国立国会図書館でも閲覧できそうな雰囲気(未検証)。

バグダッドの盗賊』に出演した時のエピソードなんか、なかなか面白いです。
雪洲についても何度か言及があり、彼がいかにハリウッドの日本人俳優の中で特別な位置にいたのかがうかがえます。

 

 

おまけ

archive.org

非営利団体によるアーカイブサイト。
早川雪洲の英語自伝『Zen showed me the way』の中身が読める。
ちなみに私はこの形式で文章を読むのが苦手すぎるので、まだ読み切れてません(おい)

 

 

以上です。おそらく随時加筆修正します。

*1:早川雪洲が渡米したのは1907年、21歳の時である。

アラン・ドロン追悼特集で観た作品たち⑤『若者のすべて』『山猫』

突然だが、最近になってフランス語の勉強を始めた。友人にそういった報告をした際に、以下のような会話が繰り広げられた。

「自分が死んだらあの世でアラン・ドロンに話しかけてみたいんだよね、『ファンです』って! だからフランス語できたほうがいいかなって」
「いいね~」
「でもアラン・ドロンって、あの世のどの辺りにいるんだろう? まずは探すところからか」
「顔が美しいから閻魔大王とかが手元に置いているかもしれない」
ヴィスコンティみたいな思想の閻魔大王だ」
小野篁に問い合わせるか」
「管轄合ってるかしら」
「さあ……」

つまり(?)、ルキノ・ヴィスコンティの映画って美男子がつきものよね! というのが私と友人のガバガバ認識である。ビョルン・アンドレセンヘルムート・バーガー、そしてアラン・ドロン


謎の導入になったが、今回はアラン・ドロン追悼特集で観たヴィスコンティ作品について書く。ネタバレと個人的な感想がてんこ盛りです。

 

若者のすべて

1960年ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞受賞
アラン・ドロンを主役に巨匠ヴィスコンティが描くネオ・レアリズモの一大叙事詩
ミラノに住む長男を頼りに、移住してきたパロンディ家。婚約者に夢中の長男は、ボクシングに身が入らない。次男はボクサーとして成功への糸口を見つけ家計を支えるが、ナディアに溺れ、落ちぶれてゆく。三男ロッコは洗濯屋で働き、やがて兵役につく。そんな折、ロッコも偶然にナディアと出会い、惹かれ合う。2人は、ささやかな愛を育んでいくが、やがて無慈悲な運命が訪れる……。

アラン・ドロン 追悼上映 Adieu(さらば) アラン・ドロン | Bunkamura

 

シモーネ(次男)……ちょっと、どうにかしたほうがいいですよ!!!(絶叫)

彼の他の兄弟は、「シモーネは善人だ」と言っていたけれど、映画の中で故郷時代のシモーネ(=善人)が描写されないので、シモーネの悪い点しかわからず、とにかく「おいおい、何やってるんですか!!?」をひたすら心の中で連呼していた。弟の働いている店で盗難をするな。

そして何より、ナディアがかわいそうである。
ナディアがシモーネを見限り、ロッコ(ドロン)と恋仲になってしばらく。シモーネが報復にやってくる、なかなか生々しいシーンがある。かなり……眉をひそめる場面だった。
シモーネがナディアについて「おれの女」発言をしたあたりもけっこう地獄でした。ナディアにも意思があるし、彼女は明確な理由があってシモーネを見限ったのに……。 
私がうっかり映画館の座席で横転しそうになったのが、上記の場面の後、ロッコがナディアに対して「シモーネとよりを戻せ」と告げる場面。ナディアに対する加害はどうなるんですか!? ナディアは娼婦だけど、自分で選んで客を取るのと、力でねじ伏せられるのじゃ天と地ほどの差があるぞ……!
彼女はかなり悲劇的な最後を遂げるのですが、ナディアもロッコとそのまま一緒になれたらけっこう違っていたのではないか……と思うと、私は辛い。

ちなみに、南イタリアでは「家を作るときにいけにえとして通りかかった人の影に石を投げる」という話があるそうで。
映画でこの話が出てきた時、私は「あ~、一家の影(主にシモーネという負の部分のツケ)を背負わされているロッコの話か。可哀想に……」と思っていたのですが、ちょうどシモーネの写真が映り込んで「そっちかい!!!!」と思った。南イタリアからミラノに出てきて、そこでの暮らしを得る代償にシモーネの善性が失われた……というか、都会的享楽に堕落した象徴、ってことなんでしょうかね。

 

 

 

山猫

www.youtube.com

19世紀半ば、統一戦争下のイタリア。貴族社会の終焉を感じながらも、名門貴族サリーナ公爵家のドン・ファブリツィオは伝統を重んじて暮らしていた。彼は時代の変化に乗る若き甥タンクレディの姿に未来の夢を託し、翳りゆく自らの運命に向き合おうとするが…。本編の三分の一を豪華絢爛な舞踏会のシーンが占める、巨匠ヴィスコンティの退廃的な美学に貫かれた超大作。黒いタイを片目にまいたスタイルの野心家タンクレディを演じたドロンの妖しい魅力が光る。

日仏学院 「追悼 アラン・ドロン」フライヤーより

 

ヴィスコンティと言えば~? めちゃくちゃ豪華な美術~!(『ルートヴィヒ』も好き)

……という思想を持つ私としては、けっこうお気に入りの作品である。いかんせん長い*1ので、そんなに回数は観られていないのだが……。

個人的に印象的なのはアンジェリカである。
晩餐会の席で武勇伝を語るタンクレディと、その隣で言葉を交わすアンジェリカ。彼女の表情がまあ怖いのなんの。時折唇をそっと舐めて、ともすると獲物をひたと見据えるような表情でタンクレディを見つめるのが……怖い! なるほど、公爵家の甥っ子(しかも顔がアラン・ドロン)を狙う目つきだ。反対隣のコンチェッタがかわいそうなくらいである。

よく台詞の中で「タンクレディは野心家」と言われるが、個人的によっぽど野心的に映るのはアンジェリカのほうだ。当時の女性に使える手段をたしかに使いこなし、美貌という武器をしたたかに操り……というところが、彼女の表情や佇まいに如実に表れている、と、思った。
タンクレディも野心家ではあるのだろうが、いかんせん私自身、イタリア統一前後の歴史にさほど詳しくなく*2、台詞でどこの軍隊に入る、と言われても、正直なところタンクレディの野心家ポイントがよくわからない。勉強します。
……それゆえに、視覚的に、表情が強烈に印象的だったアンジェリカのほうがしたたかに見える。なので、「タンクレディとアンジェリカ、結婚したら実はアンジェリカの方が焚き付けていきそうだな……」と思う。エビータことエヴァ・ペロンとフアン・ペロンみたいな。
ともかく、コンチェッタにはかわいそうだが、アンジェリカの方がたしかにタンクレディの妻には似合いそうである。

 

 

ヴィスコンティ、『若者のすべて』では「御覧ください、アラン・ドロンというダイヤモンドは汚泥にまみれてもこんなに輝いています」、『山猫』では「御覧ください、アラン・ドロンというダイヤモンドをビロードに乗せ燭台の明かりの元で展示しております。輝いていますね」って感じだ。
私はアラン・ドロンの役の中に屈折したところがある方が輝くと思う。クラック入り水晶といったところだろうか。

なんというか、これは全て幻想ですが、たとえば『嵐が丘』を映画化するとき、ヴィスコンティアラン・ドロンエドガー・リントンにしそう。彼はヒースクリフで輝くと思うのですが……。(てかクラウディア・カルディナーレをキャサリンアラン・ドロンヒースクリフでもはや嵐が丘を撮ってほしい)

 

 

というわけで、下書きに突っ込んだままだったアラン・ドロン追悼特集シリーズでした。
一回忌来るまでになんとか書き上げられてよかった!!(ほんとうは『太陽はひとりぼっち』も観たので、追加といえば追加もできるのですが……。株取引をするアラン・ドロン、かなり新鮮で良かった)

銀幕の美男子よ永遠なれ。以上。

*1:ちなみに私の父は、『山猫』の話になるたびに「舞踏会のシーンが長すぎる」といつも言っている。原作小説の方でも、「うんざりするほど長い舞踏会」という描写があったので、それをメタ的に再現したのだろうか……。それともたまたま長くなったのだろうか。謎。

*2:カルボナリ、青年イタリア、ガリバルディ……あたりの語は断片的に知っている。黒シャツ隊だっけ……と思って調べたら、そっちはムッソリーニでした。ガリバルディは赤シャツ隊でした。ごめんなさい。

アラン・ドロン追悼特集で観た作品たち④『ル・ジタン』『フリック・ストーリー』『パリの灯は遠く』

まだまだ続くよアラン・ドロン追悼特集の感想。日仏学院で観たものは今回と、次回書くつもりの『山猫』で終わりです(ル・シネマで観た『若者のすべて』とのヴィスコンティセットでお送りする予定)。『暗殺者のメロディ』、観たかったな~~~~~~~~~~~!!!!!!!

以下、作品説明はすべて東京日仏学院のフライヤーから引用しています。
当然のごとくネタバレを含みます。人物名はフライヤーの記載に合わせています。

 

ル・ジタン

"ジタン"の名前で呼ばれるユーゴは一匹狼のならず者。彼はジプシーの出身で、世間から冷たい仕打ちを受けて生きてきた。3年前、仲間に暴力をふるった村の村長を殺害したために入獄していたが、そこで知り合った銀行強盗のジョーと共に脱獄し、いくつもの銀行強盗をやってのけた。彼らを追う警察、そしてある因縁で結ばれている暗黒街の大物、男たちの思惑が交錯する。差別を受け、社会に反逆をちかう深い孤独を背負った男をドロンが熱演。脚本を読んですぐに主演を買ってでたという。

拳銃二丁持ちかっこいい!(と思ったが他の作品でもやっていた。なんの作品だったかは忘れた。『ボルサリーノ2』とかだったかな) あとウィンクがかっこいい! ここまで語彙力ゼロ!

なんというか、登場人物たちのいわゆる『美学』のようなものがいいな、と思った。たとえば傷を負ったジタンが行き着いた獣医。なぜ自分を助けたのかと問われて、かつて自分がいた植民地では助ける者を匿うきまりがあったから、と答える。ヤンが警察に囲まれていることを知って逃がそうとするジタン。それを拒否してジタンを逃がすヤン。(ところでヤンって行き先がジタンとなぜか被りまくって疑われるの、とんだとばっちりである)

 

フリック・ストーリー

1947年のある日、凶悪犯エミール・ビュイッシュが脱獄した。逮捕を命じられた敏腕刑事ロジェ・ボルニッシュはさっそく捜査に乗り出すが、ビュイッシュは彼を嘲笑うかのように次々と犯罪を重ねていく…。ドロン自身が製作をつとめた本作は、犯人役のトランティニャンにどこか花を持たせるような演出も興味深い、男二人の魅力が激突する犯罪ドラマ。30件以上の殺人を犯した、フランス犯罪史上最も悪名高いギャングといわれるエミール・ビュイッシュの実話をもとに作られた。

今回は警察側、追われる側じゃなくて珍しく追う側のアラン・ドロン
回想するような口ぶりのナレーションで始まり、ラストもボルニッシュが第4の壁をぶち抜いてきたので「ぶち抜いてきたな」と思った(?)のだが、そもそも原作がボルニッシュ自身の自伝らしい。ビュイッシュとどこか不思議な絆のようなものも感じさせるシーンがあっての幕引き。逃げるビュイッシュを追って屋根へ飛び移ろうとして失敗する場面が印象に残っている。

エミール・ビュイッシュ、犯罪者と言われても、とてもただのゴロツキに見えない品の良さがある。途中で「あの人ハンサムだわ」とキャサリーンが言っているのも頷ける(あなたの恋人の顔はアラン・ドロンですよ! と思ったのは置いておいて)。
演じている俳優は誰だろう、なるほどジャン=ルイ・トランティニャンというのか。他の出演作は……と就寝前に調べていた私は、『暗殺の森』というタイトルを見て跳ね起きた。先生(dottore)……!? と思ったが、たぶんマンガニエーロよろしく「同志(camerata)」と訂正される。まったく気づかなかった(俳優の顔を覚えるのが苦手すぎる)。ジャン=ルイ・トランティニャンの作品も観てみたくなった。ざざっと調べた感じ、『離愁』あたりかなり観たいかも。ロミー・シュナイダーが共演なんて絶対に面白い、と思う。

 

パリの灯は遠く

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第二次世界大戦下、ナチスに占領されたパリ。ユダヤ人所蔵の美術品を買い叩いて儲けていたフランス人美術商ロベールのもとにある日、ユダヤ人のための会報誌が届く。同姓同名のユダヤ人がいることを知り、不安と焦りの中で日々を過ごすロベールだったが、かつてない規模のユダヤ人大量検挙の日が近づいていた。残酷な国家と無力な個人。ユダヤ人狩りに巻き込まれていく男の恐怖を、巨匠ジョセフ・ロージー監督がショッキングなまでんい淡々と描く社会派サスペンスの金字塔。共演はジャンヌ・モロー

名作だとは思うが、後味が相当ずっしり来た。
最初のシーンが身体検査なのがもうショッキングである。全裸でこの女性はいったい何を検査されているんだ、と思ったらどうやら人種についてらしい。歯並びや顔貌でわかるものなのだろうか。
そして物語は裕福な美術商ロベールの話へ移っていく。どうやら彼に瓜二つで同姓同名のユダヤ人がいる(ということはやはり身体検査などしたところで人種なんてわかりっこないのでは?)。本人は意図せず、ユダヤ人のロベールに成り代わっていってしまう。ロベールは、ユダヤ人ではないという自分の身分証明を集めながら、まだ見ぬ<ロベール>を追い求める。
最終的に彼は、強制収容所行きの列車に乗せられる直前、自分がユダヤ人でないという証明を揃えることができる。しかし、そこで職員が呼んだ「ロベール・クライン」という名で、自分の探し続けていた<ロベール>がこの場にいることを知る。知人に「すぐに戻る」と言い残して、ロベールは列車へ向かう人混みの中を進んでいく。ついぞ彼は<ロベール>を見つけ出せないまま、思いがけず強制収容所行きの列車に乗ってしまい、列車はそのまま暗がりを進んでいく……。という幕引きになる。暗澹たる思いでこの作品を見終えた。

ちょうどこの時期、私は『フィリップ』(ナチスドイツ政権下のユダヤ人青年の映画)を見ていたこともあり、「なんで自分の出自を誰かに証明しながら生きていかなきゃいけないんだ?」「どうして自分が何者ではないということを他者に弁明したり、あるいは本当は何者であるかということを否定しないといけないんだ?」という気持ちがずっとぐるぐるしていた。そもそもユダヤ人の定義とは「ユダヤ教を信仰しているひと」じゃないのか。信教に基づく定義を人種の身体的特徴で見出すなんておかしいと思わないのだろうか*1。身体検査なんかしたところで何がわかるんだ。
今、こういうことを何も気にせず書ける環境で生まれて良かったと思うし、こういうことをそもそも変だと思える時代であることに感謝している。帽子に鉤鼻の記号化されたユダヤ人が登場する差別意識の塊のショー、それを笑うナチス将校たち、という場面が今でも頭にこびりついている。

 

 

というわけで以上3本でした。
次回書くつもりの『山猫』、本当は原作小説読み切ってから書こうと思ったのだが、読了を待つといかんせん2026年になりそうなので先に感想を書いてしまおうと思う。原作読み切れたら追記か別記事にしたい。おしまい。

*1:そういえばチャゼル監督の『バビロン』で、トーキー映画の撮影中にくしゃみをした人間に「ユダヤ人の鉤鼻!」と罵るシーンがありましたね。ステレオタイプに基づく差別があったという描写。