郵便配達はベルを鳴らさない

平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

無限は弾きこなせない『海の上のピアニスト』感想

『午前十時の映画祭』なる映画特集がある。

1年単位でラインナップを組み、古今東西の映画を上映してくれるという極めてありがたい特集である。ちなみに2024年度の公式サイトはこちら。

asa10.eiga.com

私の父親も(世間の平均と比べたら)映画が好きなので、次年度の顔ぶれが出るたびに「このラインナップどうよ」と見せている。
2023年度のラインナップを見せた際に父親が「これ好きなんだよね、観たいな~」と言ったのが『海の上のピアニスト』だった。父親孝行するか~と思い、忘れっぽい父親の代わりにチケットを取った。そんなわけで鑑賞に至る。

www.youtube.com

ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督と映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネがタッグを組み、船上で生まれ育ち一度も船を降りることがなかったピアニストの生涯を描いたドラマ。1900年。豪華客船ヴァージニアン号の機関士ダニーは、ダンスホールのピアノの上に置き去りにされた赤ん坊を見つけ、その子に「ナインティーン・ハンドレッド」と名付けて育て始める。船という揺りかごですくすくと成長したナインティーン・ハンドレッド。ある晩、乗客たちは世にも美しいピアノの旋律を耳にする。ダンスホールのピアノに座って弾いていたのは、ナインティーン・ハンドレッドだった。
https://eiga.com/movie/1793/

(午前十時の映画祭の宣伝しときながら予告編と解説文違うところからの引用なのはつっこまないでください)

主人公の名前は、正確には「ダニー・ブードマン・T・D・レモン・1900」である。名付け親の名前と主人公が入れられていたレモンの箱と西暦を魔合体させるとこうなる。ダンブルドアといい勝負すぎるだろ。ちなみに本編ではほぼほぼナインティーン・ハンドレッド呼びです。

好きなシーンはいろいろあるが、ぶっちぎりで好きなシーンはコーン吹きことマックス(本作の語り手)と1900の出会いである。
トランペットの即興実演という荒業でヴァージニアン号のジャズ隊に採用され、船に乗り込んだマックス。その晩は嵐で、船はひどく揺れ、彼はフラフラとよろけつつあちこちをさまよいながら船酔いに苦しんでいる。
そこに現れたのはテールコートに身を包み、金髪を撫でつけた青年。「コーン吹き、船酔いか?」「治してやる」。ひどく不安定な船内を悠々と歩き、ダンスホールのピアノの椅子に腰を下ろす青年。ピアノの車輪止めを外し、マックスに隣へ座るように勧め、やがて船の揺れに身を任せピアノを弾き始める。彼こそ1900であった。

船が揺れるのと一緒にカメラも揺れるため*1、私もコーン吹きよろしく酔いそうになったが、あまりにも素敵な場面だった。楽しそうに弾くピアノもさることながら、揺れる船内を涼しい顔で歩いていく1900のあまりに人間離れした様子が印象的。いやこんな出会い方したら一生忘れられないだろう。ダンスホールのガラスを揺れ動くピアノで突進して突き破っていたが(すごい日本語だなこれ)、彼らが船長に大目玉を食らわなかっただけが心配である。

そしてジャズの生みの親ことモートンとのピアノ対決。1900の噂を聞きつけたモートンがヴァージニアン号に乗り込んでくる。三番勝負で初っ端から本気で演奏をするモートン。1曲目は自分がくわえていたタバコをピアノに置き、ピアノが焦げる寸前で見事に曲を弾き上げ、2曲目でも観客から喝采をほしいままにする。それに対し、1曲目はきよしこの夜、2曲目はモートンと全く同じ演奏をする1900。
そして3曲目。1900が本気を出した。目まぐるしい音の量。腕が4本くらいないとできないような超絶技巧の早弾き。観客はあっけにとられ、葉巻を落としたことも、カツラが取れたことすら気づかない。弾き終えた1900は、早弾きで熱をもったピアノ線でタバコに火を点け、モートンにくわえさせる。

ピアノ線って、熱を持つ構造、ある? と思ったがそこはそれ、モートンへの意趣返しである。ピアノ対決は何をもって勝利になるのかよくわからなかったが、1900の技巧の前にモートンはプライドをへし折られ、次の港で目立たないように降りていった。


と、ここまで良い方向で印象に残ったシーンについて書いてきたが、逆にぎょっとしたシーンもある。

1900が出会った乗客に「海の声を聞いた」という男が居た。彼は海の声を聞き、末娘のためにアメリカへ行って新たに人生を切り拓くことを決めた。
その数年後、「父は海の声を聞いたの」と語る少女がヴァージニアン号に乗っていた。1900は彼女の美しさに一目惚れし、彼女を想いつつ弾いたピアノ演奏の録音レコードを渡そうとする。どう声をかけようかと1人で自室で練習をする1900が健気である。

ここまではいいのだ。ここまでは。

が、1900がある夜、三等女性客室に忍び込む。
三等女性客室は、ひとつの空間に三段ほどのベッドがひたすら並んでいる。一等のような個室ではなく、イメージ的には「体育館に何百人もが布団敷いて寝てる」ようなものといえばいいだろうか。明らかに女性専用空間だろう。なんで忍び込んだ?
そして彼は寝静まっている女性たちをきょろきょろと見回し、想い人を見つけると、寝ている彼女の唇にキスをする。ア、アウト!!!!
1900が慌てて身を隠すと同時に彼女は目を覚ます。危なかった。危なかったというよりもう完全にアウト。何やってんだ1900。映画だからギリギリ許されるかもしれないが、現実なら即刻現行犯だし、必要のあるシーンとは思えなかったし、普通に観ていてゾッとした。制作が1999年なのでそうした感覚がなかったのかもしれないが、あれは本当によくない。ロマンチックでもドキドキでもなんでもないです。純粋に加害である。

そして彼女を追って船を降りようとするものの、結局はタラップを渡りきらずにヴァージニアン号に戻った1900。

第二次世界大戦が終わり、ヴァージニアン号の爆破解体に際してマックスがなんとか1900のことを見つける。ここでの1900のセリフが「コーン吹き、船酔いか?」なの、ぐっと来てしまう。
そして船を降りて地上にいかなかった理由を語る1900。「タラップから地上を見たとき、終わりが見えなかった」。鍵盤は88と決まっているから無限の音色を弾けるが、鍵盤が無限ではどう弾けばいいのかわからない、と。

私は1900のこの心情を理解できるほど人生経験があるわけではないが、陸にある有象無象の可能性という名の鍵盤に圧倒されてしまったのだろうか、と思った。あの少女よりも美しい女性だってごろごろいるかもしれないし、そうすると彼が目印にしていた鍵盤があっというまにわからなくなってしまうのかもしれない。

そして1900の心情を理解したマックスは、彼に船を降りるよう強いることはしなかった。1900はヴァージニアン号と最期を共にした。


ここからは完全に蛇足であるが、『海の上のピアニスト』の1900とオペラ座の怪人は似ているなと思った。私がミュージカル『オペラ座の怪人』が好きすぎて万物をオペラ座の怪人と思ってしまう病気だからかもしれない。
ただの思いつきなので類似点をただ並べてみるが、
①存在する空間に縛りがある(ヴァージニアン号、パリ・オペラ座)
②音楽が好きであること
③想い人からインスピレーションを得ていること
④想い人と結ばれなかったこと
あとは渡したかったものを渡せなかったこと(1900はレコード、オペラ座の怪人は指輪を渡したけれど最後返されたこと)、実在が怪しまれ人づてでその存在が語られていること、など。以上。


午前十時の映画祭、本当は今年度は『地球防衛軍』を観て平田昭彦のかっこよさをn度目の確認し、『暗殺の森』を観てドミニク・サンダが当時19歳であったことを知り顎が外れ……などしているのだが、感想の出力が追いついていない。まずい。今日も『オッペンハイマー』観てきちゃったしな。どうしような。なんとかしたい。おわり。

*1:たぶん撮影現場は揺れてなんかなくて、マックスがよたよた歩く演技をして、物はガチャガチャ動かし、カメラを揺らして撮ったのではないかと思う。

早川雪洲の命日に千倉へ行った

11月23日はなんの日?
そう、全国民がこう答えるでありましょう。
日本人ハリウッドスター・早川雪洲の命日であると……。
今日って早川雪洲の命日だから祝日なんですよね。なんかよくわからん理由つけて誕生日(6月10日)も祝日にしませんか?

妄言はさておき、早川雪洲は1973年11月23日にその生涯を閉じた。
つまり今年の命日は正真正銘の没後50年である。ちょうど節目であるし、早川雪洲の出身地である千倉には前々から行ってみたかった。乗るしかないこのビッグウェーブ

ということで、私は公共交通機関を駆使し、気づけばJR千倉駅に降り立っていた。

千倉駅と早川雪洲の自伝

まず「千倉ってどこ?」という話だが、千葉県南房総市に位置する。チーバくんの土踏まずのあたりである。内房線を無限に乗っていると辿り着ける。

何があるのかもちゃんと把握しないまま勢いだけで降り立っただけに「どうしよ~~」とクソデカ独り言を発しながら駅前をウロウロ。調べてから行けよ。

バスの時刻表を見ても本数が少なく、そもそも頼みの綱であるGoogleマップがバス路線の存在を認知してなさそうだったので利用を諦めた。
事前に「観光案内所で自転車を貸してもらえる」という話を聞いていたのでさっそく向かう。電動アシスト自転車の1日利用(17時まで)で1,000円とのこと。ついでに堤防のアート作品の場所を教えていただき、自転車を借りる。

堤防のアートはこれのことです↓

www.tokyo-np.co.jp

そんなわけで超久々にチャリを漕ぐ。どうやら目的地まで片道6kmあるらしい。ひょえ~。しかしわざわざここまで来て何もせず帰るわけにはいかない。命日だし。没後50年だし。電動アシストの強弱を一番強くして出発した。

しかし当然チャリで爆走している人間なんかいない。路面の状態もなかなかスリリングな箇所もあり、ボコボコすぎて空中一回転をキメないか心配になった。お前は007にでも出てるつもりなのか? 結果として、車! 車車車! バイクの集団! 車! 突如現れるナメた格好でチャリ爆漕ぎの私! 車! 車車車! みたいなオモシロ風景を爆誕させてしまった。車があるなら車で来るに越したことはない。

体力なさすぎてヒーヒー言いながらチャリを漕ぎ続け、たまに道を確認し、カバンを砂浜にぶちまけ、Googleマップ神のお告げでは20分で着くはずのところを50分かけてやっと早川雪洲肖像画にエンカウントした。

それぞれ1930年代の早川雪洲と、彼の出世作である『チート』のワンシーンを描いたものらしい。写真のような精緻さ。私の家の近所にも早川雪洲の壁画、描いていただけませんか?(だめです)

早川雪洲の壁画を見て満足したあと、せっかくなので道の駅に自転車を停め、雪洲の暮らしていたであろう千倉町千田のあたりを散策してみることにした。

高塚不動尊にあった看板

ふらふらと歩いていると高塚不動尊にたどり着く。看板のフレーズに誘われるまま「早川雪洲と同じ景色、見るか~」と歩を進めるも、進んだ先に「わな注意」の表示が。
どうしよう、よくわからんけど不審者としてわなに引っかかるかもしれん、という懸念が頭をよぎりリターンを決め込んだ。代わりにその場から見える景色を撮ってなんとなくお茶を濁す

あまりよく考えていなかったが、なぜか電柱がセンターになってしまった写真

ここからでも十分海がいい感じに見える。あの海が太平洋か。ここで雪洲も渡米を決意したのか。これ見てる方向ってちゃんとアメリカなのかな。若干ズレててブラジルとかの方向だったらどうしよう。と思考が脇道にそれまくったのでその場をあとにした。あと高塚不動尊にお賽銭を投げた。

孤独のグルメとかに出てきそうな雰囲気の店で腹ごしらえ

せっかく海の町に来たので刺身盛り合わせ定食を食べる。少食なたちなのだが、チャリ爆走と新鮮な海の幸のおかげで無事に完食。

道の駅で買い物をし、千倉駅へ再びチャリを走らせる。今度は道もわかるし余裕が出てきて、通行人がいないのをいいことにオペラ座の怪人を口ずさみながらチャリを漕ぐ。なんで?

なんだかんだ3時間ほど千倉をエンジョイし、無事に駅に戻る。時間配分を勘違いしていたので40分ほど電車待ちの時間が発生した。そんなこともある。
ようやっと電車が来るアナウンスが聞こえてくる。「2両編成で参ります」にマジで? と思った。

マジだった。かわいいサイズ感である。電車のドアもボタンを押さないと開かない。ちょっと新鮮だった。

というわけでとりとめのない文章になったが、早川雪洲の出身地に行ったという話でした。
なんというかすごく海との距離が近い町に思えた。物理的にもそうだけど、ふと海沿いの防波堤に腰を掛けてぼんやり地平線を眺めている人がいたり、その辺の道端で海に釣り糸を垂らしている人がいたり。本人がそう希望したのか親がそうさせたのか比重は分からないが、環境として雪洲が海軍志望になるのもわかる気がした。海とさほど関わりのない場所で育った私には諸々新鮮でした。

早川雪洲没後50年ということで千倉に足を運んだが、次はどうしようかな。そのうちアメリカにも行きたいのだが、一体いつのことになるだろう。いつかは知らないけど、行ったらたぶん記事にします。おしまい。

ハラキリ、セッシュー・ハヤカワ! 新国立劇場オペラ『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』

あなたは自分の好きな俳優が突然オペラの歌詞でハラキリを宣言されたことがありますか? 私はあります。

たまには葛飾北斎切腹する回があったっていいな(そんなわけはない)。

何百回目の説明かわからないが、私は草創期ハリウッドの日本人スター・早川雪洲が好きである。今でこそ知名度は低いが、100年前はそれはもう有名で、欧米にも(むしろ欧米でこそ)広くその名が知れ渡っていた。
その証左として、あるオペラの歌詞に彼はなんの脈絡もなく登場する。「ハラキリ、セッシュー・ハヤカワ」と。なんでだよ。いっそ某年末年越し番組で突然タイキックを宣言されがちな某芸人と既視感を覚えてしまう。1910年代のハリウッドのガキ使にありがちなこと:(デデーン)早川、切腹。たぶんバスター・キートンは番組中盤の鬼ごっこで花嫁候補の女性たちに追いかけられて無表情で逃げるんだろうな……(『セブン・チャンス』のイメージが強すぎる)など、存在しないバラエティ番組を考えてしまうくらい意味不明である。

そんなわけで、かねてから気になっていたオペラ『子どもと魔法』が新国立劇場でかかるらしい。プッチーニの『修道女アンジェリカ』とダブルビルというわけで観に行った。U25割引バンザイ。5,000円でオペラが観られるってすばらしいね。

さらにキャンペーンに当選し、定価1,500円の公演プログラムを無料で頂いてしまった。新国立劇場ほんとうにありがとう。
腹を切らされる早川雪洲目当てで観に行ったとはいえ、せっかく二本立てを観に行ったので両方の作品の感想をざっくり述べておこうと思う。

『修道女アンジェリカ』

プッチーニ作のオペラ。未婚の母となった貴族の令嬢が修道院で暮らしており、音信不通だった親族が7年ぶりに来訪して……という筋書き。
白を基調としてすっきりとした色味の舞台セット。だからこそ日暮れの金色の光や、青みがかった照明の色がとても映える。新国立劇場にはちょこちょこ行っているが、せりを使った舞台装置の入れ替えを初めて見たので印象に残った。バックステージツアー参加してみても良かったかも。
オペラについては永遠の初心者なので本当に浅い感想しか書けないのだが、アンジェリカ役の人の歌がうまかった(それはそう)。慟哭するかのような歌声でボリュームがぐわっと上がるのすごかったな。

『子どもと魔法』

修道女アンジェリカと打って変わって超カラフルで超にぎやか。冒頭の演出がゴリゴリに映像だった。
ソファと椅子、置き時計、中国茶碗にティーポット、本の中のお姫様、暖炉の炎、庭の木などなど入れ代わり立ち代わり。数学の教科書の歌詞で、「100年前のフランスの数学の教科書といまの日本の数学の教科書の問題ってほぼ似てるな」と謎に感動した。蛇口を2つひねるな。列車を20分ごとに走らすな。
あと途中でめちゃくちゃキャッツに既視感のある場面があった。でも制作年代としては『子どもと魔法』のほうが先なんだろうな。人間は猫を踊らせたがるらしい。

さて、ぼちぼちハラキリするセッシュー・ハヤカワの話に移ろうと思う。

フランスと早川雪洲

「ハラキリ、セッシュー・ハヤカワ」が歌われるのは『中国茶碗の歌』の中だ。参考に演奏会で歌われたらしい映像を貼っておく。

youtu.be

『子どもと魔法』の初演は1925年であるが、その少し前の1923年に早川雪洲は『ラ・バタイユ』という日露戦争を題材にしたフランス映画を制作・主演している。日本海軍中尉のヨリサカ侯爵を演じ、この映画は大ヒットを収めた。

ヨリサカ侯爵を演じる早川雪洲。30代の男盛りである。ご覧の通りとても美しいですね。

……というところまで、公演プログラムにも記載がある。

実は早川雪洲という俳優はフランスでもともと評価が高かった、というところをまとめておきたい。
早川雪洲といえばまず1915年の『チート』が有名である。日米では外交問題に発展したが、フランスにおけるこの作品の芸術的評価は高い。たとえば以下は『ラ・バタイユ』の批評だが、

(中略)だからといって、フランス映画における早川雪洲の存在の格別な重要性が損なわれるわけではない。日本の偉大な無声映画俳優である彼は、自分にふさわしい役を見つけた。スクリーンの『ラ・バタイユ』は彼無くしては『ラ・バタイユ』たりえなかっただろう。(中略)『チート』の驚異的な表現者は、この作品で自分の力を最大限に発揮し、人間の表現力の極限にまで達し、私達の中に無限の苦痛、苦悩、絶望をもたらしたことは明らかである。*1

『チート』での早川雪洲が高く評価されていることがわかる。なんなら『チート』は1937年、雪洲二度目の渡仏の際にリメイク版が制作される。作品のオープニングでは「早川雪洲とファニー・ウォード出演の1915年版『チート』の翻案」という字幕とともに、1915年版の映像が流れ、早川雪洲がオリジナルとほぼ同じ役回りで登場する。

ついでに『ラ・バタイユ』撮影のために渡仏した早川雪洲についての新聞記事があったので、ざっくりの翻訳で引用しておく。

パリの来客の中に、今日存在する最も著名な人物の一人がいる。その人は強大な国家君主でもなく、政治的にスキャンダルを起こしたわけでもなく、偉大な党指導者でもなく、有名作家でも、船長でも、傑作の創始者でもなく、音楽家でも、画家でも、天才的な彫刻家でもなく……これ以上探す必要はない。その人は映画スターだ!
どうしてもっと早く気づかなかったのか? どうしてそう言わなかったのか? 映画俳優の他に本当に輝かしい人物などいるだろうか? チャリオット、フーティット、マックス・ランダー……。銀幕のスターたちほど、その名声がまばゆく、議論の余地のない、普遍的な人物を他に挙げることができるだろうか?

今この瞬間、日本の偉大な芸術家である早川雪洲が、生身の早川雪洲として私達と共にいることは、私達にとって大きな名誉であり、貴重な喜びである。これは誇りに思うのが当然ではないだろうか?
早川雪洲は日本を離れ、フランスへ来ることを良しとし、記者たちはこの偉大な人物の御前に立ち会わせてくれるように頼み、彼は慇懃にもインタビューに応じてくれた。*2

べた褒めすぎる。他にも良さげな記事がないかと思ったが、逆に大量にありすぎてピックアップに骨が折れそうなので断念した。ちなみに同記事では、早川雪洲を「偉大な国家元首だけに許される栄誉を受ける」だとか、demi-dieu(dieuが神とか崇拝対象といった意味のようである、つまり半神のようなニュアンス?)と表現されている。本当にべた褒めだな。

というわけで、『子どもと魔法』の制作された当時、早川雪洲はフランスにおいてもとてつもなく有名人であり、「ハラキリ」と並んで「日本」(東洋)を表象する存在であったといえるだろう。でも出てくるの中国茶碗の歌なんだよな……。サオラ、カスカラ、ハラキリ、セッシューハヤカワ。とっても中国風でしょう?(投げやり)

ちなみにネットで見かけた別演出の『子どもと魔法』では、ハラキリするのは早川雪洲でなくブルース・リーにされていた。ブルース・リーはハラキリしないだろ。

 

ハラキリの表象と早川雪洲

フランスにおける切腹の表象については、ネットの海で発見したこちらの論文に諸々が書いてあった。

フランスにおける「日本」のイメージ形成 ―「ハラキリ」を中心に― 
https://www.pref.kanagawa.jp/documents/32645/k0702.pdf

切腹、すなわち「ハラキリ」がどうフランスの人々の口に膾炙したのかが書かれている。その中に、『ラ・バタイユ』の原作小説で日本人将校が理由不明で切腹をしたという記述がある。原作未読なのでどの人物が腹を切ったのかわからないし、映画版でヨリサカ侯爵は切腹をしていない(はず。こちらも未見で悔しい)ではあるが、いずれにしろ当時の「日本」イメージの代表格たるハラキリと早川雪洲が並べられるのはむべなるかな。

ついでにイギリスの新聞の論評には、

早川雪洲のスターとしての唯一の欠点は、当然のことながら、白人女性と関係を持つことができないということだ。もし脚本家が彼と白人女性の関係性にけりをつけようとするなら、彼は最終的にハラキリをしなくてはならない。*3

とある。ハラキリはhari-kariと書かれていたが、たぶん記者は腹を切らせたかったのだろう。全員三島由紀夫なのかというレベルでハラキリが好きなようだ。

ちなみに早川雪洲が映画の中で切腹をした件数はどのくらいなのだろう*4。『ハシムラ東郷』には切腹を仄めかす場面の写真が残っているようだし、戦後になるが『戦場にかける橋』でも切腹に言及する場面があったはず。『戦場よ永遠に』では腹を切っている。
舞台では英国王室の招聘で上演した『サムライ』で切腹しているらしい。
でも結局は実際に早川雪洲が腹を切ったかどうかなんて大して関係なく、「アジアっぽい単語を並べられればOK」だったんだろうなと思う。

というわけで以上、オペラで脈絡なく切腹宣言される早川雪洲おもしろいねという話でした。
『ラ・バタイユ』を死ぬまでに観たいです。おわり。

 

*1:Cinéa, J. Tedesco et P. Henry, 1923-12-15, p12-13

*2:La Presse, 1923-08-27

*3:"The Men and Women Today" Dundee Courier, 1923-10-10

*4:めちゃくちゃ蛇足だが、私は早川雪洲海軍兵学校に落ちて腹を切ったという話をわりと疑っている。その話の初出が英語自伝なので……

早川雪洲初主演作『颱風』を観た ―国立映画アーカイブ

国立映画アーカイブ(NFAJ)にはだいぶお世話になっている。
去年は東宝映画特集で『新しき土』の伊丹版を鑑賞して「うわファンク版と違う!」と盛り上がったし、『ゴジラ』で芹沢大助こと平田昭彦のカッコよさに気づいてしまった。

そんな中、NFAJにはいつもだいたい秋くらいに催している『サイレントシネマ・デイズ』なる特集がある。2021年は早川雪洲主演の『男一匹の意地』(Where Lights are Low)を上映しており、大はしゃぎで観に行った。なんなら当時受講していた映画系講義のコメントシートに「NFAJの『男一匹の意地』観に行きます!!!!! めっちゃ楽しみです!!!!!」と勢いのままに書きなぐった気がする。先生ごめんなさい。
毎年サイレント映画を取り扱ってくれるNFAJありがたいな、2023年は早川雪洲没後50年だしなにかやってくれないかな……と思っていたところに、こんなツイートを見つけた。

早川雪洲がキービジュアルなんだが!? 

おたくは「早川雪洲の没後50周年なんか企画あれ」と思った。
すると上映があった。おたくはその告知を見て良しと思った。

そんなことがあっていいのか。夢?
しかも「死ぬまでになんとか観たいな~」と思っていた早川雪洲作品のひとつの『颱風』である。うわーーーーー。脳内の情報処理が追いつかなくて思わずその場でくるくる回転してしまった。絶対初日に行こうと思っていたが社会人の務めに阻まれてしまった。どなたか館長説明の文字起こしください。

というわけで作品内容について、私の微妙な記憶力とともに感想を述べていこうと思う。以下ざっくりしたストーリー。

舞台はパリ。トコラモ博士(早川雪洲)はスパイであり、日本の国益のために日夜報告書を書き続けている。彼は踊り子のエレーヌと恋仲であり、周囲の日本人仲間(領事館の面々)には遊びの関係だと説明している。エレーヌはトコラモに熱中しており、婚約者のベルニスキーに別れを告げる。悲嘆に暮れたベルニスキーはトコラモの屋敷を訪れ、エレーヌがいかに不誠実であるかを訴える。衝撃を受けたトコラモはエレーヌを追い出そうとするが、「黄色いネズミ」「あんたの日本も地図の小さな黄色いシミ」と罵倒され、彼女を殺してしまう。トコラモは報告書を書き上げなければならないため、彼の代わりに日本からの留学生である弘成が罪を被って刑に処された。
警察がトコラモの屋敷に踏み入ったとき、トコラモは自責の念に駆られて息を引き取り、彼の報告書は領事館の人間の手で灰燼に帰していた。

さすが悲劇のハヤカワの初主演作なことだけあって救いが全くない筋書きである。

作品の冒頭、「インス」「會社」と日本語で記された幕が上がって登場人物たちが挨拶をする。『火の海』と同じ始まり方である。
『火の海』も『颱風』も監督はトーマス・インスではなくレジナルド・バーカーでは? と思ったが、そもそもバーカーはインスの下で働いていたらしい(ちなみに『火の海』は製作総指揮がインス)。そんなわけでインスの文字があるらしい。早川雪洲に映画界入りを打診したのもインスだしな。

最初の方に紋付袴や人力車が登場するものの、意外にも日本人たちは洋装で登場する。けっこう自然だなと思いつつ観ていたものの、途中で突如としてトコラモの屋敷に日本領事館の面々がぞろぞろと現れる(彼らはいつも集団で動いている。仲良しだね)。曰く、「端午の節句のお祝いをしよう」。
洋風屋敷の床にぺらぺらの座布団を敷き、やかんを置き、ついでに棚を開けて仏像を出し、提灯をぶらさげ、洋装の上に着物らしき上着を着て座る。急にエキゾチックポイントを稼いでくるな。伴奏もこいのぼりを弾いていた。突然の展開に微妙な笑い声が聞こえる客席。このお祝いはエレーヌのサプライズ登場でぶち壊しになる。
日本人観客としてはこの場面でだいぶオモシロになってしまったがいいのだろうか。まあロミオとジュリエットもマキューシオが死ぬまではなんだかんだ喜劇チックと聞いたしな……。

事前にTwitterでこの作品の感想を見ていた中で、「話の筋がわかりにくい」というものをちらほら見かけた。果たして……と思いながら観に行ったが、なるほどややこしいかもしれない。①弘成、②トコラモ、③エレーヌ、④領事館(場合によってはベルニスキーも)の間でけっこう頻繁に視点が動くので、今誰がどうなっているのかを覚えている必要がある。それに加え、時系列の把握が難しく感じた。視点が動いたはいいが、たとえば「この領事館の面々の場面は、さっきのトコラモとエレーヌの場面の後? それとも同時並行に起きてる?」と考えることもままあった。もうちょっと軸にする人物を絞れたような気がしないでもない。
もともと『颱風』は舞台作品らしいが、そちらではどのような演出だったのだろう。トコラモの屋敷に場面を絞った密室劇でもよかったのでは……など勝手に考えてみる。今度調べよう。

それから最後、トコラモが本当に突然死んだ。なんで? 平安時代の人?(私は平安時代の人はすぐ物思いで死ぬと思っている。壬生忠見に謝れ)
私が見逃したのか何なのかわからないが、拳銃で頭を打ったり腹を切ったりする素振りもなく気づいたらトコラモが死んでいた。エレーヌを殺してしまった後、トコラモは輪をかけて沈痛な面持ちであったし、いつも報告書を書いていた机に突っ伏していたのだが、にしても気づいたら死んでいた。途中までエレーヌの女友達が気つけの酒を飲ませて介抱していたのに。カメラが捉えていない間になにかあったという設定なのか、それとも本当に良心の呵責で死んでしまったのか、唐突にThe Endになった。解釈が難しすぎる。

……と、つらつら書いてきたが、私にしては真面目に作品について感想を述べたと思うので、早川雪洲の話をする。

やっぱり顔がうつくしい。職務の重圧なのか、あまりに熱烈な恋人への愛憎なのか、いつもどこか僅かに眉根を寄せた憂いのある表情の早川雪洲が素敵だった。彼の容貌を形容するのに「broodingly」という言葉をしばしば見かけるが、なるほど陰のある美しさである。

そして今作の演技はかなりサイレント映画っぽい感じだと思った(平たく言うと大仰だと思った)。特にベルニスキーからエレーヌの不誠実さについて聞く場面、エレーヌに対して激昂する場面は『チート』などと比べるとかなり腕のこわばりや身振りが目立った気がする。なぜだかはわからない。彼の演技は「腹芸」と表現されることが多いが、まだその境地に辿り着く前だったのかもしれない。全部憶測です。
天を仰ぐ動作を数度していたが、あれは大仰でもなく目線の動きと表情から滲み出るやるせなさが良いと思った。

そんなわけで、今年のサイレントシネマ・デイズの早川雪洲作品も存分に楽しめたのでした! 国立映画アーカイブに大感謝! これからもお世話になります!
ところであのキービジュアルの場面、エレーヌと女友達がトコラモの屋敷に来ていることにトコラモが気づくシーンだったんだな。ほんの数秒だけどすごく画になるショットだなーと思った。おわり。

神戸映画資料館で早川雪洲作品を観てきた

神戸映画資料館早川雪洲の出演作を3本観てきた。ブログのタイトルそのまますぎる。
 

そして三連休初日の人混みをかき分け新幹線に飛び乗りn時間、やってまいりました神戸! 実は初上陸! でも観光とかは時間カツカツ過ぎて不能だったのでまた今度!
完全に早川雪洲の映画を観るためだけに神戸に来た人になってしまった。他ジャンルで遠征したときもそんなもんだったのでオタクあるあるなのかもしれない。
上映作品は『おミミさん』『末裔』『蛟龍を描く人』の3本。後者ふたつは観たことがあるものの、『おミミさん』は初見。以下感想。
 

おミミさん

以下、私の微妙な記憶力によるストーリーの要約です。

将軍の息子ヨロトモ(早川雪洲)は首相の娘と婚約している。ヨロトモへの嫉妬を抱く弟トゴワワは家臣に唆され、叛逆を企てる。ヨロトモは難を逃れるため、平民に身をやつす。彼は逃れた先でおミミさん(青木鶴子)と出会い、惹かれ合う。
トゴワワは捕らえられ、牢獄の中で切腹して果てる。
かねてより小康状態だった将軍は病に倒れ、死去。ヨロトモは呼び戻されることとなり、おミミさんに「君のことは永遠に忘れない」と告げて別れる。

1年後、首相の娘と結婚したヨロトモはおミミさんとの記憶に思いを馳せるのだった。
早川雪洲の映画デビュー作。当時28歳くらいだろうか。ちょんまげが貴重すぎる。
ヨロトモとかトゴワワってどういう名前!? と思うが、ひょっとするとヨロトモは源頼朝が元ネタだろうか。トゴワワは本気でわからん。忠臣として登場するオワリは尾張かもしれない。将軍と首相が両立する世界、徳川と諸大名による連合政権が成立した場合のパラレル明治時代?
ちなみに、この作品は映画『カツベン!』で成河演じる映写技師のフィルムの切れ端コレクションに登場する。当時『カツベン!』を観た私は「私もおミミさん観たことないのに! うらやましい!」と騒いで映画館を破壊し、牢獄で切腹を命じられた。嘘です。やっと観る機会があってよかった。NFAJがまさか所蔵しているとは知らなかった。
思ったよりも日本の調度品や服装に違和感がなかった。この点については青木鶴子がちゃんと口を出していたという記述を読んだ覚えがある。
あとトゴワワを唆す家臣がおそらくはイエローフェイスなキャスティングでやや驚いた。もう少し時代を経たときに撮っていたら、きっとヨロトモとおミミさんがイエローフェイス、悪役の家臣にアジア系という配役になっていた気がする(リメンバー、『大地』のキャスティング問題)。
どんなストーリーか全く知らないで観たのだが、悲しい結末で驚いた。首相の娘と婚儀を終え、「(妻に)すぐ行くと伝えてくれ」と言うヨロトモ。召使いが去っていき、彼は開けられたままの障子から外を眺める。そこに映るのはおミミさんとの最後の逢瀬。たがてヨロトモは障子を閉め、そのまま作品は終わる。ヨロトモが「心を閉ざす」というのと障子を閉めるというのが重なっているような気がした。
でも改めて考えたらインス映画の早川雪洲、だいたい死ぬかつらい目に遭ってるのでそれはそうか(?)
 

末裔

あるネイティブアメリカンの部族では、白人の学校で学んだ酋長の息子・ティア(早川雪洲)の帰還を待ちわびていた。戻ってきたティアは酒浸りで素行も悪く、すっかり堕落してしまっていた。
部族では白人の身の安全を保証すると約束を結んだものの、ティアの方はならず者たちと組んで白人を襲うことを計画していた。
酋長は白人の加勢に向かい、遠くからティアを撃ち殺す。息子の死をせめて名誉のあるものにしようと、彼の亡骸を白人の死体の傍に置く。ティアは英雄として手厚く葬られた。
早川雪洲にしては珍しく前髪あり眉毛(のメイクほとんど)なしの映画。どういう観点で観てるんだよ。
白人の知恵を持った酋長に……という願いの元で送り出され、酒浸りになって帰ってくるのあまりにも無情すぎる。白人による『教化』は必ずしも成功はしないということだろうか。
鐙も鞍も無しで馬に乗れる人間、体幹が強すぎると思う。よく振り落とされないな。途中で片手乗りしているシーンもあったし、早川雪洲はぜったいに乗馬ポテンシャルあると思う。彼に関するフランスの新聞記事の記述で、彼の趣味のひとつに乗馬が挙げられていた気がする。早川雪洲は活劇の路線でも輝けたんじゃないだろうか。
 

蛟龍を描く人

"竜の絵師"ことタツ(早川雪洲)は、1,000年前に山の神に連れ去られた許嫁である"竜の姫"を探し求めている。
人々はタツを風変わりで野蛮だと見なしていたが、測量技師のウチダが彼の絵の才能に気づき、後継者不在に悩むカノウインドラの元へ連れていく。タツはインドラの娘・ウメコ(青木鶴子)に一目惚れし、彼女こそが"竜の姫"だと確信する。インドラはタツの才能を認めて後継者に指名し、ウメコと結婚させる。
しかし、竜の姫を探す必要のなくなったタツは、絵が描けなくなってしまう。自分の存在がタツの才能を奪ったと知ったウメコは、滝に身を投げる旨の書き置きを残して姿を消す。
タツは絶望に打ちひしがれたが、しばらく経ったある日、かつての才能を取り戻す。白人相手の展覧会でも高く評価され、画家としての成功を収める。
それでもやはりウメコのことを焦がれるタツだったが、彼女は再び姿を現す。タツウメコの傍で絵を描き続けるのだった。
一言、めちゃくちゃ良かった。
『鶴子と雪洲』の中で著者の方が「『蛟龍を描く人』を観てサイレント映画の魅力に気づいた」という記述をされていた。正直最初にそれを読んだときあまりピンと来ていなかったが、今ならわかる。『蛟龍を描く人』、名作です。
原作があるという要因もあろうが、まず脚本がいいなと思った。行動の動機や各々の考えていることがちゃんとわかるし、それがしっかり話の展開を生み出していることがわかる。いや原作云々ではなく純粋に映画という芸術の成熟過程なのかもしれない。わからん。
それからアフタートークでも話があったが、フィルムの状態がいい。
ちゃんと映画館のスクリーンであんなにきれいな映像で観られて感動した。青木鶴子の浮かべる涙までちゃんと見えてよかった。「こんなにも細かく表情の演技してたんだ」という気づきがあった。すげ~~~~(語彙の死亡)
今回アフタートーク神戸大学の板倉先生が登壇されており、「『蛟龍を描く人』で論文を書いたことがある」と仰っていたので検索したらインターネット上では閲覧不能のようだった(リンク先がいろいろとNot Foundを叩き出した)。大学時代に早川雪洲に関する論文は印刷できるだけ印刷したつもりだったのだが、母校に日本フェノロサ学会の機関誌が置いていなかったようだ。先生の話されていた要約がとても興味深かったのではやいとこ国立国会図書館に行きます。
 

他に思ったこと

早川雪洲が演じる役の欧米社会における立ち位置について
『チート』のトリイ、『颱風』のトコラモを始めとしてだいたい「東洋からやってきた東洋人」であることがほとんど。あるいは『神々の怒り』だとか『蛟龍を描く人』のような「東洋社会の東洋人」。『長子相続権』(His Birthright)だけはアメリカ人父と日本人母を持つ設定だけど、これも母を捨てた父への復讐を目的に船に乗り込む話なので、欧米社会の外部に位置する役であることには変わりないかもしれない。
雪洲と同時期に活躍したアンナ・メイ・ウォンは中国系3世だが、彼女が演じたのも雪洲と似たタイプかも、と思う(私の調べが足りないのもあると思うが、帰化したような役で見かけた覚えがあんまりない。フー・マンチューの娘を演じた『龍の娘』は2世ではあるが……という感じ)。やはり当時のアメリカ社会でアジア系は「異分子」みたいなイメージが強かったんだろうか。なんとなく思ったことを書いているが、サイレント映画におけるアジア系2世以降の表象とかちゃんと調べたら面白いかもしれない。
早川雪洲の(主にトーキーでの)扱いにくさ
主に早川雪洲の役柄・声についての言及があったので考えてみた。
マチネー・アイドルとして一世を風靡していた頃は留学生・王子・ネイティブアメリカンの酋長の息子・画家・将軍の息子・暗黒街の若者……となんでもござれなイメージがある。が、トーキーのあたりになると軍人か刑事(『東京暗黒街・竹の家』)あたりに集約される気がする。威厳と地位のある役というところだろうか。
また声……というより語学についてになるが、以前早川雪洲の英語については記事を書いた。

tochterdeskino.hatenablog.com

ようは「発音が綺麗とはいえない」というのが私の感覚である。かの『チート』の改作『Forfaiture』や『戦場にかける橋』を観ていて、「雪洲のセリフ少なくない?」と思ったことがある。特に『戦場にかける橋』は以前テレビで放映されているのを後半くらいから見始め、雪洲が出ているのに喋らない場面の多さに驚いた(私が観た時点からは一言しか話さなかった)。『東京暗黒街・竹の家』では完全に吹き替えられていた。『緑の館』では先住民の酋長であり、英語ではない現地語のセリフのみだった。ひょっとすると何らかの配慮が働いているのでは……と思ったりもする。*1

また、早川雪洲についてはギャラがべらぼうに高かったようなので、よけいに出しづらかったのでは、と思う。

 

まとめ

結論から言うと大満足すぎた。自分のスケジューリングがカツカツすぎて新神戸駅を爆走する妖怪と化し、ものを買う暇もなく帰りの新幹線に滑り込んで夜11時まで夕食抜きのゾンビとなってしまったのを差し引いてもめちゃくちゃ良い一日でした。新幹線代往復分出したとしてもお釣りがじゃらじゃら出てくる。早川雪洲の美貌、何枚でも札出してええですからね。
映画館の設備と素晴らしい生演奏でこんなにも作品の魅力が発揮されるものなんだ、と再認識。サイレント映画の上映会にはもっとフットワーク軽く行こうと思った。100年前の人々がうらやましい。
アフタートークでもいろんな話が聞けてとっても勉強になった。過去映画の上映というと私は今まで国立映画アーカイブのものしか足を運んだことがなく、今回もそのイメージでやってきたのだが、予想以上に観客と話者の距離が近くて驚きだった。心の準備をしておくべきだった。挙手された方々の話も「そんな深い分析が……!」と驚いたり、「たしかにそれ気になる」と気付かされたり、とにかく刺激を受けた。メアリー・フェノロサの原作を読むこと、青木瓢斎についてもっと調べることが当面の私のやりたいことである。
いや、ツイートもしたが、1年前にこの上映会があったら私の卒業論文にももっと深みが出た気がする。再入学いいですか?(ダメです)

 

*1:こうした忖度もどきを感じなかった作品もあり、『三人帰る』や『戦場よ永遠に』、『東京ジョー』あたりは本人が他の俳優や登場頻度と極端に変わらないセリフ量だったと思う

人と時の移ろいやすさ 『さらば、我が愛/覇王別姫』感想

昔、大学で演劇分野の講義を取っていた。
かといってそんなにガチガチに難しいものでもなく、入門編のような気楽なものだった。教授の軽妙な喋りと、豊富な映像資料をもとに、昔は雅楽や神事から現代はミュージカルまで幅広く取り扱う講義だった。

さて、そこで話題に上ったのが京劇であった。未知の演劇との遭遇である。日本でいうと歌舞伎に近いのだろうか。ははあ、梅蘭芳ってひと綺麗だなあ。
そして教授が参考に、と流したのが『さらば、我が愛/覇王別姫』だった。
教室のスクリーンに映ったのは文化大革命で反共分子が弾劾される場面だった(以下に引用するツイートの映像のあたり)。今にして思えばいきなりなんちゅうシーンを流すんだよ、と思う。

実際に観たのはほんの数分だったが、それだけでなんだかこの映画に惹かれるものを感じ(教授もこの作品を推していたような気がする。覚えてない)、さっそくTSUTAYAだかアマゾンプライムだかに走って作品を観た。「良い作品だけどえらく体力が持っていかれる」と思った。好きな作品は平気で50回以上観る性分ではあるが、『覇王別姫』はそうもいかなそうだ。果たしてまた観ることはあるだろうか。

と、思っていたら、映画館でリバイバル上映するらしいと知った。これは観ないともったいない。というわけで数年ぶりにこの作品を鑑賞することになった。

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京劇の俳優養成所で兄弟のように互いを支え合い、厳しい稽古に耐えてきた2人の少年――成長した彼らは、
程蝶衣(チョン・ティエイー)と段小樓(トァン・シャオロウ)として人気の演目「覇王別姫」を演じるスターに。女形の蝶衣は
覇王を演じる小樓に秘かに思いを寄せていたが、小樓は娼婦の菊仙(チューシェン)と結婚してしまう。
やがて彼らは激動の時代にのまれ、苛酷な運命に翻弄されていく…。

さらば、わが愛 覇王別姫 4K|ABOUT THE MOVIE

一言でいうと「しんどい」に尽きる。語彙がおしまい。小樓、蝶衣、菊仙の関係性に「愛憎入り交じる」ってこういうことなんだと思わされる。表現の一例として辞書に載せてほしいくらい。関係性が多面的で、いろんな感情があって、方向としては逆のように思える感情も両立して、すごく、むずかしい。因果の糸が縺れて絡まっているような。

個人的には蝶衣と菊仙の関係が印象的だった。同じ男を想うふたり。当然お互いにお互いのこと気に食わないよな! と思う。
小樓が日本軍に逮捕されたとき、蝶衣が助けに行こうとした矢先に現れる菊仙。すると外套を脱いで、袁四爺から贈られた髪飾りの手入れを始める蝶衣。菊仙に説得され、助けに行くという流れを作るの狡猾……。「小樓を助ける代わりに菊仙は彼と別れる」という条件だったのに、いざ小樓が釈放されると、彼と菊仙は同じ車に乗り込んで去って行く。しかもふたりは正式な結婚式まで挙げる。赤い衣裳を着て顔を上げる菊仙、あまりにも美しい。したたかな女のそれである。

蝶衣と小樓が似たような状況に置かれているときでも、あくまで菊仙が助け船を出すのは小樓だけという点が徹底している。しばらく京劇から離れていたふたりが、かつての師匠に戒めとして少年の頃に課されていたような罰を受ける場面でも「夫に罰を与えるなら私に挨拶してからでないと」と言う。共産党が政権を握った後、新たな京劇を模索すべくふたりが意見を求められたときも、小樓が発言を促されたタイミングで「傘持ってきたわよ」と割って入る(下手なこと言ったら大変だもんね)。
蝶衣が日本軍との関係を疑われ裁判にかけられたとき、無罪を得るために菊仙が袁四爺の力添えを得ることに成功するが、それは「小樓と手を切ること」という条件付きだった。

しかし蝶衣と菊仙の関係は必ずしもいがみ合うだけではない。アヘンの禁断症状に苦しみ「寒い」「母さん」と譫言をいう蝶衣に、上着を掛けて幼子にするかのように抱いてやる菊仙。蝶衣の母も菊仙と同じく娼婦だし、菊仙は子供を流産してしまったしですごく複雑な構図にみえた。疑似親子みたいな。
そして後半のほうで本番直前、虞姫の役(と小樓の相手役)を取られてしまい、呆然と立ち尽くす蝶衣に上着を掛けてやる菊仙と、それに「ありがとう、姉さん」と返す蝶衣。
(ここまで書いて思ったけど「衣を掛ける」ってなんだか意味を含ませた行動っぽいな。)

さて、こうした関係も文化大革命の反共分子弾劾の場である意味で終着点を迎える。
小樓と蝶衣が京劇の出で立ちで広間に引きずり出され、自己批判をさせられ、やがてそれはお互いの行動への糾弾になっていく。
ここで小樓が蝶衣への批判を始めるのがすごくつらい。蝶衣が日本軍に招かれたこと、京劇の「守り神」だった袁四爺との関係などを群衆の前で言及する。蝶衣は菊仙が元娼婦であることを暴露し、小樓は本人の居る前で菊仙を「愛していない」と口走る。
この場面本当に地獄すぎると思う。人間の弱さが容赦なく出ている。ここで小樓が蝶衣や菊仙のことを守りきれたらどんなによかったことか。このふたりは小樓を愛していたがゆえに蝶衣は日本軍の前で舞ったし、菊仙は数え切れないほど気を回したのに。しかし小樓も人間だった。得意のレンガ割りもできないくらい弱ってしまった。
(菊仙が「あなた(蝶衣)と芝居をやらなければこんなことにはならなかった」的なことを言うシーンがどこだったか失念してしまったが、それもそれで違うだろと思った。元々小樓と蝶衣が京劇をやっていたわけで……何度かコンビ解散と再結成はあったけど)

菊仙はけっきょく娼館を出て「普通の生活がしたい」というのが願いだったんだと思う。願いが純粋なものだったからといってやり方がすべて美しいとか、清いとかそんなことはもちろんないし、観ていて「話違うじゃん」とか「狡猾だな」とか思うことのほうが多かった。でも人間って多面的なんだよな。聖人君子なんかいないんだよな。婚礼衣装を身にまとって首を吊った菊仙が不憫でならなかった。

蝶衣がきっと京劇の世界でしか生きていけないんだろうなと思う。京劇から離れている間、小樓も小樓で「おれは役者なのに」と鬱屈としている様子だったが、蝶衣はアヘンにまで手を出している。病み具合がすごい。共産党政権の時代に入ってからの京劇のモダン化には強硬に反対していたし、こだわりと思い入れの強さがうかがえる。
作中で何度も「舞台の外でも虞姫のつもりか」だとか「役と自分の区別がつかないほどの境地にいる」といった表現がなされるし、結末だって虞姫と同様に首を剣で突いて死ぬ(のが示唆される)。
反共分子の弾劾の場で、覇王の化粧に手こずる小樓の前に、完璧な化粧と衣裳で現れる蝶衣があまりに美しかった。京劇役者としての矜持だろうか。

思いつくがままに書き連ねてきたが、私が「容赦ないな~」と思った点をふたつほど挙げてもう終わろうと思う。

まずは日本軍の描写。日本が投降したあと、京劇を観に来た中華民国軍に対して小樓が「ライトを点滅させるのはやめてください。日本軍でもしなかったことです」と発言して暴動に発展する。また、蝶衣が日本軍と関係があった嫌疑で裁判に掛けられ、彼は「青木(日本軍将校)が生きていたら京劇を日本へ持っていったことでしょう」と自らに不利な発言をする。きっと中国では日本軍に対する心証はものすごく悪いだろうに、実は日本軍のほうが京劇という文化への敬意があった……という描写に驚いた。

そして時間の流れと世の流れ。清王朝の宦官に始まり、京劇の守り神こと袁四爺、日本軍、そして共産党など多くの権力者が登場して時代が移ろっていく。宦官は耄碌したタバコ売りに、袁四爺は反共分子、日本軍は敗戦、共産党も四人組の失脚で文化大革命が終わる。
登場人物たちにとっての時間の流れもまた容赦ない。『石頭』と呼ばれていた小樓もやがて頭でレンガを割れなくなってしまうし、飛び降りる菊仙は娼館では抱きとめてもらえたが、文化大革命が差し迫る中見た夢では誰も抱きとめてはくれない。蝶衣は「私は女に生まれ、男ではない」という尼僧のセリフを、最後には昔のように「(私は男に生まれ)女ではない」と言い間違える。他にも気づかないだけでいろいろ散りばめられているんだろうな。

この大作映画を映画館で観る機会があってほんとうに良かったと思う。感想書いてたらまた観たくなってしまったのだが、ぼちぼち上映終了のところも出てきているようなので観たい方はお早めにどうぞ。おわり。

正気を犠牲にしたオデュッセウス 『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』感想

ちょうど一年前の今頃、私はオリバー・マスッチなる俳優に熱を上げていた。
詳細は以下である。

tochterdeskino.hatenablog.com

さて、このときに私はオタクの嗜みとして彼のInstagramの投稿を片っ端からチェックしたのだが、なんだか面白そうな主演作を見かけた。タイトルは『Schachnovelle』、直訳すると「チェスの話」である。

どうやらナチスが不穏な影を落とし始めた頃の話らしい。
この投稿を見つけたのが2022年。この投稿がされ、どうやら欧州で公開されたのが2021年。日本では公開してよ~~~! と家で地団駄を踏み、その衝撃で居住地区を破壊し、私は家庭を放逐された。嘘です。

それからさらに一年、居間で家族団欒を過ごしている最中、傍らで父親が読む新聞にふと目を落とした。なんだ今日もテレビは2時間スペシャルばっかりじゃん。おお映画の広告が――と、視界に飛び込んできたのは『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』の文字だった。
うわ、Schachnovelleだ! この映画日本で上映するんだ! ひとしきり小躍りしたしばらく後、私は映画館にすっ飛んでいった。上映権買った会社ありがとう。どこだか知らんけど。

というわけで以下ネタバレ有りの感想です。

ロッテルダム港を出発し、アメリカへと向かう豪華客船。ヨーゼフ・バルトークは久しぶりに再会した妻と船に乗り込む。かつてウィーンで公証人を務めていたバルトークは、ヒトラー率いるドイツがオーストリアを併合した時にナチスに連行され、彼が管理する貴族の莫大な資産の預金番号を教えろと迫られた。それを拒絶したバルトークは、ホテルに監禁されるという過去を抱えていた。船内ではチェスの大会が開かれ、世界王者が船の乗客全員と戦っていた。船のオーナーにアドバイスを与え、引き分けまで持ち込んだバルトークは、彼から王者との一騎打ちを依頼される。バルトークがチェスに強いのは、監禁中に書物を求めるも無視され、監視の目を潜り抜け盗んだ1冊の本がチェスのルールブックだったのだ。仕方なく熟読を重ねた結果、すべての手を暗唱できるまでになった。その後、バルトークは、どうやってナチスの手から逃れたのか? 王者との白熱の試合の行方と共に、衝撃の真実が明かされる──。
映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』公式サイト

まずSNSでもちらほら見かけた感想ではあるが、「別にナチスにチェスゲームは仕掛けていない」というところがある。てっきりチェスプレイヤーの役なのかと思っていた時期が私にもありました。そんなことはない。平たく言うと弁護士である。彼がナチスによる監禁生活で拠り所にしていたのがチェスの教本というわけだ。
この作品では、①彼がナチスに監禁されて解放されるまでの時間軸と、②解放された後に乗り込んだ船での時間軸が交互に展開される。

もともと主人公のバルトークは裕福な暮らしをしていたし、教養人でもあった。冒頭の場面では彼がゲーテを引用し、「本の読みすぎでは」と反応されると、彼は本というのは「精神の栄養」であると答えた。おそらく頭も抜群にいい。パーティの夜、ナチスオーストリア併合が間近であることを友人に知らされ、急いでオフィスに向かった彼は、彼が管理するオーストリア貴族の口座の認証番号が記された書類を暖炉に焚べる(このとき流れているラジオ放送の『白鳥の湖』中継とそれを中断しての墺首相の声明放送も良い)。その際に数字と銀行名を指で辿っていた。覚えられるのかそれ。すごい。
さて彼がナチスに連行され、認証番号を教えることを拒否したために、『特別処理』なるものが課せられた。それは拷問でも暴行でもなく、ホテルの一室への監禁であった。私物は服以外のすべて取り上げられ、読むものも書くものも一切ない。食事を渡しに来る見張りも一切喋らない。時折聞こえるのはどこからか響いてくるアップテンポなレコードと悲鳴だけ。精神的に限界へ追いやるのがナチスの目論見らしい。
本を「精神の栄養」と表現していたバルトークは日に日に追いつめられていく。勝手に「エーリヒ」と名前をつけた見張り兵に「何か読むものをくれ」と訴えても当然反応はない。窓の外を眺めて『オデュッセイア』の一節を唱えるくらいしかできることはない。
そんなある日、彼はホテルの廊下に出る機会を得た。フロアではナチスの人間たちが本を集めて「ハイネは燃やしていいわ」などと処分を検討している(ハイネはユダヤ人だったな。皇后エリザベートが聞いたら烈火の如く怒り出しそうな発言である)。そこで、バルトークと同じく『特別処理』の対象だったであろう男が絶望のあまりか窓から身を投げる。現場が騒然となっている隙に、バルトークは本の山から一冊引き抜き、懐へ隠した。
が、部屋へ戻って中身を確かめるとそれはチェスのルールブックだった。「マックス・フォン・ルーヴェン」なんてグランドマスターの名前も載っている。チェスを「プロイセンの退屈な将校がする遊び」と称していたバルトークは絶望するものの、読み始めてルールを理解するとチェスにのめり込むようになる。認証番号を教えなければホテルからは出られないと告げられても、「ここは一流のホテルだよ、気に入った」なんて返せるほど、チェスは彼にとって心の支えとなった。
ただそれも長くは続かない。バルトークの部屋に置かれていたルールブックの存在や、支給されるパンで作っていた駒の存在が発覚してしまう。今までナチスに対して臆することなく振る舞ってきたのに、「私の本じゃない」「頼む、見逃してくれ」「私の本だ」と涙して懇願するバルトークの弱々しさよ……。眉をひそめて「お前の尊厳はどこへ行った?」と言い放つナチスの調査官。おまえが尊厳破壊したんじゃろがい。それからバルトークはより環境の劣悪な別室へ連れて行かれ、気の狂うような日々を過ごす。
やがてふたたび、ナチスの調査官が彼に口座の認証番号を書くように促す。彼は一心不乱に数字とアルファベットを綴っていく。だがしかしそれは、チェスの棋譜だった。調査官はバルトークが完全に狂ってしまったことを察し、彼を釈放することにした。
バルトークはホテルのフロントで必要書類にサインする。「マックス・フォン・ルーヴェン」と……。

えらく長々と①の時間軸について書いてしまったが、文化・娯楽・教養といったものの重みを改めて感じた。人間は極限状態にいるとき、縋れるものを探す。バルトークナチスにこそ勝利したものの、その代償はあまりにも大きすぎた。

そして私はクソ余計なお世話ということは重々承知ながら、オリバー・マスッチこれ演じて寿命ゴリゴリに削れたりしない? 大丈夫? と思った。序盤のウィーン社交界を楽しみ「ウィーンが踊る限り大丈夫さ」と嘯くバルトークと、解放された後に客船に乗り込む姿の落差に衝撃を受けたし、いざ時間軸をそれぞれ追って行って、その"落差"という溝がなめらかな過程で埋まったとき、うわあ、という気持ちしか出てこなかった。
そして冒頭のオリバー・マスッチの衰弱した演技に気を取られていたら、実はそのとき同席していた奥さんが主人公の幻覚だったというの恐ろしすぎる。映画は基本的にバルトークの脳内を観せられている感じなので(時間軸が交錯するし幻覚もある)、一体どこまでが本当なのかよくわからない。世界王者が持っていた腕時計はけっきょく誰のものだったんだろう。良い映画だったと思います。

追記

私は②の時間軸(客船)を実際に起こったことだと解釈していたのだけれど、さまざまなところで作品の感想を見ていると②が主人公の妄想だと考えている人が多かった。ので、調べてみたら監督のインタビュー(英文)が出てきた。

moveablefest.comこれによると、②は現実世界の話ではないらしい。マジか。
てっきり第三者的な視点で(つまりは客観的に)バルトークが正気を失っていることがわかる描写がある(妻の悲鳴が……といってカモメを助けに行く、妻は妄想だったと判明する、独房かと思いきや船の客室、オデュッセウスが云々とぶち上げて周りの客に怪訝そうに見られる)ので、現実の出来事だと判断していた。それからバルトーク本人が自分をグランドマスターであるマックス・フォン・ルーヴェンだと思い込んだ妄想ならば、「駒に触ったのはこれが初めて」という発言も出てきづらい気もする(ルーヴェンがどのような経歴でチェスをやっていたのかは不明だが、全く駒に触らないことはあまりないような)。

逆に妄想であるといわれてもわかる気がしないでもない。世界王者ミルコはナチスの調査官と同じ俳優が演じていたらしい(気づかなかった)。
そして船の所有者に世界王者との一騎打ちをオファーされたときの「(負けたとしても)失うものはなにもないだろう?」に対するバルトークの「Mehr als Sie sich  vorstellen können.」というセリフの重さを今になって理解する。「君の想像以上にあるさ」くらいの意味だと思うのだが、確かに②の時間軸のバルトークが負けたところで失うものはないが、①のバルトークが負けたら口座の認証番号をナチスに明け渡すことになる。

いや妄想だったらいつどのタイミングで主人公が練った話なんだよ、ホテル出た後? でもそれぞれの時間軸が交錯する場面の同時性は失われるのでは? 時間経過とともに練ってる話なら映画におけるそれぞれの世界線が登場する順序おかしくない(最初に②の乗船の場面が来たあとに①の日常生活の描写が来るので、①で監禁されたあとに②始まる形じゃないとおかしくない)? と一生考え続けていた。

私の納得の行く解釈としては「②の時間軸は現実ではなく(かといって主人公が自発的に練った妄想でもなく)、①で主人公の置かれた状況を客船でのチェスゲームになぞらえた並行世界」かなと思った。主人公の潜在意識の世界というか。ハリポタ死の秘宝Part2でハリーがアバダケダブラされたあとに居た謎空間世界みたいな。やっと言語化できた。えらく長い文章になってしまった。そう考えると、「ナチスとの精神的な攻防をチェスゲームに仮託している」という点では邦題の意味もなんとなくわかるような。


まったく話が逸れるが、私の大好きな友人は気が塞ぐときに梶井基次郎の『檸檬』の一節を唱えて平静を取り戻すそうだ。私もなにかお守りの文学が欲しいと思っていたのだが、この作品を観た帰りに本屋に立ち寄り、『オデュッセイア』を購入した。

ムーサよ、わたくしにかの男の話をしてくだされ。トロイエの聖なる城を屠った後、ここかしこと流浪の旅に明け暮れた、かの機略縦横なる男の物語を。(中略)己が命を守り、僚友たちの帰国を念じつつ海上をさまよい、あまたの苦悩をその胸中に味わったが、必死の願いも虚しく僚友たちを救うことはできなかった。*1

 

*1:ホメロスオデュッセイア(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年、p11