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平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

人と時の移ろいやすさ 『さらば、我が愛/覇王別姫』感想

昔、大学で演劇分野の講義を取っていた。
かといってそんなにガチガチに難しいものでもなく、入門編のような気楽なものだった。教授の軽妙な喋りと、豊富な映像資料をもとに、昔は雅楽や神事から現代はミュージカルまで幅広く取り扱う講義だった。

さて、そこで話題に上ったのが京劇であった。未知の演劇との遭遇である。日本でいうと歌舞伎に近いのだろうか。ははあ、梅蘭芳ってひと綺麗だなあ。
そして教授が参考に、と流したのが『さらば、我が愛/覇王別姫』だった。
教室のスクリーンに映ったのは文化大革命で反共分子が弾劾される場面だった(以下に引用するツイートの映像のあたり)。今にして思えばいきなりなんちゅうシーンを流すんだよ、と思う。

実際に観たのはほんの数分だったが、それだけでなんだかこの映画に惹かれるものを感じ(教授もこの作品を推していたような気がする。覚えてない)、さっそくTSUTAYAだかアマゾンプライムだかに走って作品を観た。「良い作品だけどえらく体力が持っていかれる」と思った。好きな作品は平気で50回以上観る性分ではあるが、『覇王別姫』はそうもいかなそうだ。果たしてまた観ることはあるだろうか。

と、思っていたら、映画館でリバイバル上映するらしいと知った。これは観ないともったいない。というわけで数年ぶりにこの作品を鑑賞することになった。

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京劇の俳優養成所で兄弟のように互いを支え合い、厳しい稽古に耐えてきた2人の少年――成長した彼らは、
程蝶衣(チョン・ティエイー)と段小樓(トァン・シャオロウ)として人気の演目「覇王別姫」を演じるスターに。女形の蝶衣は
覇王を演じる小樓に秘かに思いを寄せていたが、小樓は娼婦の菊仙(チューシェン)と結婚してしまう。
やがて彼らは激動の時代にのまれ、苛酷な運命に翻弄されていく…。

さらば、わが愛 覇王別姫 4K|ABOUT THE MOVIE

一言でいうと「しんどい」に尽きる。語彙がおしまい。小樓、蝶衣、菊仙の関係性に「愛憎入り交じる」ってこういうことなんだと思わされる。表現の一例として辞書に載せてほしいくらい。関係性が多面的で、いろんな感情があって、方向としては逆のように思える感情も両立して、すごく、むずかしい。因果の糸が縺れて絡まっているような。

個人的には蝶衣と菊仙の関係が印象的だった。同じ男を想うふたり。当然お互いにお互いのこと気に食わないよな! と思う。
小樓が日本軍に逮捕されたとき、蝶衣が助けに行こうとした矢先に現れる菊仙。すると外套を脱いで、袁四爺から贈られた髪飾りの手入れを始める蝶衣。菊仙に説得され、助けに行くという流れを作るの狡猾……。「小樓を助ける代わりに菊仙は彼と別れる」という条件だったのに、いざ小樓が釈放されると、彼と菊仙は同じ車に乗り込んで去って行く。しかもふたりは正式な結婚式まで挙げる。赤い衣裳を着て顔を上げる菊仙、あまりにも美しい。したたかな女のそれである。

蝶衣と小樓が似たような状況に置かれているときでも、あくまで菊仙が助け船を出すのは小樓だけという点が徹底している。しばらく京劇から離れていたふたりが、かつての師匠に戒めとして少年の頃に課されていたような罰を受ける場面でも「夫に罰を与えるなら私に挨拶してからでないと」と言う。共産党が政権を握った後、新たな京劇を模索すべくふたりが意見を求められたときも、小樓が発言を促されたタイミングで「傘持ってきたわよ」と割って入る(下手なこと言ったら大変だもんね)。
蝶衣が日本軍との関係を疑われ裁判にかけられたとき、無罪を得るために菊仙が袁四爺の力添えを得ることに成功するが、それは「小樓と手を切ること」という条件付きだった。

しかし蝶衣と菊仙の関係は必ずしもいがみ合うだけではない。アヘンの禁断症状に苦しみ「寒い」「母さん」と譫言をいう蝶衣に、上着を掛けて幼子にするかのように抱いてやる菊仙。蝶衣の母も菊仙と同じく娼婦だし、菊仙は子供を流産してしまったしですごく複雑な構図にみえた。疑似親子みたいな。
そして後半のほうで本番直前、虞姫の役(と小樓の相手役)を取られてしまい、呆然と立ち尽くす蝶衣に上着を掛けてやる菊仙と、それに「ありがとう、姉さん」と返す蝶衣。
(ここまで書いて思ったけど「衣を掛ける」ってなんだか意味を含ませた行動っぽいな。)

さて、こうした関係も文化大革命の反共分子弾劾の場である意味で終着点を迎える。
小樓と蝶衣が京劇の出で立ちで広間に引きずり出され、自己批判をさせられ、やがてそれはお互いの行動への糾弾になっていく。
ここで小樓が蝶衣への批判を始めるのがすごくつらい。蝶衣が日本軍に招かれたこと、京劇の「守り神」だった袁四爺との関係などを群衆の前で言及する。蝶衣は菊仙が元娼婦であることを暴露し、小樓は本人の居る前で菊仙を「愛していない」と口走る。
この場面本当に地獄すぎると思う。人間の弱さが容赦なく出ている。ここで小樓が蝶衣や菊仙のことを守りきれたらどんなによかったことか。このふたりは小樓を愛していたがゆえに蝶衣は日本軍の前で舞ったし、菊仙は数え切れないほど気を回したのに。しかし小樓も人間だった。得意のレンガ割りもできないくらい弱ってしまった。
(菊仙が「あなた(蝶衣)と芝居をやらなければこんなことにはならなかった」的なことを言うシーンがどこだったか失念してしまったが、それもそれで違うだろと思った。元々小樓と蝶衣が京劇をやっていたわけで……何度かコンビ解散と再結成はあったけど)

菊仙はけっきょく娼館を出て「普通の生活がしたい」というのが願いだったんだと思う。願いが純粋なものだったからといってやり方がすべて美しいとか、清いとかそんなことはもちろんないし、観ていて「話違うじゃん」とか「狡猾だな」とか思うことのほうが多かった。でも人間って多面的なんだよな。聖人君子なんかいないんだよな。婚礼衣装を身にまとって首を吊った菊仙が不憫でならなかった。

蝶衣がきっと京劇の世界でしか生きていけないんだろうなと思う。京劇から離れている間、小樓も小樓で「おれは役者なのに」と鬱屈としている様子だったが、蝶衣はアヘンにまで手を出している。病み具合がすごい。共産党政権の時代に入ってからの京劇のモダン化には強硬に反対していたし、こだわりと思い入れの強さがうかがえる。
作中で何度も「舞台の外でも虞姫のつもりか」だとか「役と自分の区別がつかないほどの境地にいる」といった表現がなされるし、結末だって虞姫と同様に首を剣で突いて死ぬ(のが示唆される)。
反共分子の弾劾の場で、覇王の化粧に手こずる小樓の前に、完璧な化粧と衣裳で現れる蝶衣があまりに美しかった。京劇役者としての矜持だろうか。

思いつくがままに書き連ねてきたが、私が「容赦ないな~」と思った点をふたつほど挙げてもう終わろうと思う。

まずは日本軍の描写。日本が投降したあと、京劇を観に来た中華民国軍に対して小樓が「ライトを点滅させるのはやめてください。日本軍でもしなかったことです」と発言して暴動に発展する。また、蝶衣が日本軍と関係があった嫌疑で裁判に掛けられ、彼は「青木(日本軍将校)が生きていたら京劇を日本へ持っていったことでしょう」と自らに不利な発言をする。きっと中国では日本軍に対する心証はものすごく悪いだろうに、実は日本軍のほうが京劇という文化への敬意があった……という描写に驚いた。

そして時間の流れと世の流れ。清王朝の宦官に始まり、京劇の守り神こと袁四爺、日本軍、そして共産党など多くの権力者が登場して時代が移ろっていく。宦官は耄碌したタバコ売りに、袁四爺は反共分子、日本軍は敗戦、共産党も四人組の失脚で文化大革命が終わる。
登場人物たちにとっての時間の流れもまた容赦ない。『石頭』と呼ばれていた小樓もやがて頭でレンガを割れなくなってしまうし、飛び降りる菊仙は娼館では抱きとめてもらえたが、文化大革命が差し迫る中見た夢では誰も抱きとめてはくれない。蝶衣は「私は女に生まれ、男ではない」という尼僧のセリフを、最後には昔のように「(私は男に生まれ)女ではない」と言い間違える。他にも気づかないだけでいろいろ散りばめられているんだろうな。

この大作映画を映画館で観る機会があってほんとうに良かったと思う。感想書いてたらまた観たくなってしまったのだが、ぼちぼち上映終了のところも出てきているようなので観たい方はお早めにどうぞ。おわり。