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平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

新しき土とサムライの娘 『新しき土』日独版比較

『新しき土』(Die Tochter des Samurai/侍の娘)という映画がある。

ja.wikipedia.org

ざっくりとしたストーリーを以下にまとめた。

輝雄(小杉勇)はドイツに留学したことをきっかけに日本の家族制度を始めとする慣習に反感を覚えるようになる。帰国途上の船で出会ったゲルダ(ルート・エヴェラー)を伴い日本へ戻った彼は、養父である大和巌(早川雪洲)に対して光子(原節子)との婚約を破棄したいと申し出る。絶望した光子は婚礼衣装を手にし、身を投げるべく浅間山に向かう。

左から巌(早川雪洲)、ゲルダ(ルート・エヴェラー)、光子(原節子)

1937年に制作された日独合作映画で、伊丹万作とアーノルド・ファンクが監督を務めている。ただし「合作」とはいうものの、途中で両氏の間で方向性の違いで解散でもしたのか(ロックバンドか何かか?)、最終的に伊丹版(日本版・英語版とも)とファンク版(ドイツ版)の2パターンが完成することとなった。

……という経緯を本で読んだことがあった。私はファンク版を観たことがあり、大してそれぞれの版で違いがあるようにも思っていなかったのだが、先日伊丹版を観る機会に恵まれその認識は一変した。

大和邸での場面である。輝雄と共に日本へ来たゲルダの存在に思い悩む光子。ファンク版ではそこで巌が「ゲルダ・シュトルムさんはお父様のお客人ですよ」と光子を宥める台詞がある。
ところが伊丹版では「ゲルダ・シュトルムさんはお父様のお客人だよ」と言っていた。
だよ!? 名家の当主を演じる落ち着きのある佇まいの早川雪洲の口からそんなフランクな語尾が飛び出してくるとは思わずに面食らった。
と、同時に「もしかしてほぼ同じシーンでも伊丹版とファンク版で別に撮っているのでは?」と気づいた。この気づきを起点にして伊丹版(日本版)とファンク版(ドイツ版)は案外違う作品のように思えたので、気づいた限りで両バージョンを時系列順に比較したいと思う。

伊丹版を復習しようと思い、ネット上のパブリックドメインな『新しき土』を探したが全てファンク版であった。以下は全て私の儚い記憶に頼っている。学術論文とかではないし自分のメモ代わりでもあるのでどうか大目に見てほしい。

ちなみにパブリックドメインなファンク版のリンク:

archive.org

・作品全体の特徴

ファンク版:使用言語はドイツ語もしくは日本語。ドイツに日本を紹介するという目的(そしてファンクが山岳映画で著名)ということもあり風景を映した場面が多い。

伊丹版:使用言語は英語と日本語。ファンク版ではドイツ人設定であったキャラクター(ゲルダや、光子の語学の先生など)が英語を話し、おそらくは英語圏の人物という設定になっているらしい。対ドイツ限定ではなく対世界の輸出映画を制作したような印象を受ける。

・冒頭

ファンク版:すぐにオープニングに入る。

伊丹版:「この映画は外国の監督(ファンク)が制作したので日本人からすれば地理的な面など不可解に思われる箇所があるかもしれないが大目に見てほしい」との伊丹万作の断り書きが入る。たしかに地理的にはだいぶ不可解である。

・工場の場面

工場で働く輝雄の妹(市川春代)が輝雄帰国の報を受け取る場面。

具体的に「ここが違う」とは指摘しにくいのだが、ファンク版と伊丹版とで別の映像が使われていたように思う。ファンク版では「あのね、お兄さんが帰ってくるわ!」を連呼して少し不自然な印象を受けたのだが、伊丹版は「お兄さんが帰ってくるの」くらいの口調で同僚たちに話していた覚えがある。


ゲルダと輝雄の船の場面

ファンク版:ドイツ語で話す。船内に飾られている国旗は鉤十字。

伊丹版:英語で話す。国旗はアメリカの星条旗(だった気がする)。

・大和邸の場面

これも使用言語の他には具体的に指摘しづらいが、ファンク版と伊丹版で異なる映像を使っていた。
また決定的な相違点として、伊丹版では光子が自室にある写真を眺める場面があった。輝雄と共に山で撮った写真で、これが後に山の火口で身投げを試みる終盤につながる描写になっていた。
(ファンク版ではドイツ語の稽古の場面があったけれど、伊丹版はどうだったかすっかり忘れてしまった。gefallenの1格と3格使いづらいよねわかる~と思いながら観ていたが、伊丹版の使用言語である英語であのややこしさを再現できる文法があるのだろうか)


・輝雄とゲルダの入国後の場面

ファンク版:「ここは東京? それともベルリン?」とのゲルダの台詞。直後に映る『阪神電車』のネオンにたぶんここ大阪あたりだよというツッコミを内心で入れるのはご愛嬌。

伊丹版:「ここは東京?」の台詞がベルリンではなくニューヨークになっていた気がするが不明。阪神電車のネオンは見なかった覚えがあるので伊丹万作が差し替えたものと思われる。


・光子と巌の夜行列車での場面

ファンク版:光子の花嫁修業の数々の回想がある。巌が娘の寝顔を見守っているのが地味に怖い。

伊丹版:光子の花嫁修業の回想がファンク版と比較して短い(薙刀の場面あたりカットされていたような)。巌は光子の「お父様!」の声で気づいて様子をうかがう感じだった。気がする。ファンク版で光子がまた寝る前に「たくさん(ピアノを)練習したんだもの……」とドイツ語でつぶやいていた台詞がカットされたか否かは忘れたが無かったような気がする。


・ホテルの場面

ゲルダと光子が出会うあたりまでは基本的に言語以外の違いはなし。
輝雄と巌の話し合い終了後、ゲルダが巌・光子父子の客室にやってくるところから違いが出てくる。

ファンク版:ゲルダのノック後、「あたし、今困ります」と言う光子に対して「お前はサムライの娘じゃないか」と声をかける巌。ドイツ語題の『侍の娘』の伏線回収か。
その後ゲルダが入室、光子を気にかける言葉を日本語で話すと巌は「どうかドイツ語だけでお話しください。光子はあなたに会えて喜んでいます。そうだろう?」。光子は「とても嬉しいです」と応えて場面転換。

伊丹版:「サムライの娘」発言はなしで光子はすぐに来客を迎える体制を整える。ゲルダ入室、日本語で話すまでは同じ流れ。
その後の流れは失念したが、ゲルダを迎えて椅子に座り歓談。「シュトルムさんを我が家にご招待しましょう」という趣旨の発言が巌の口からなされる。やはり英語版のほうが早川雪洲の台詞が多い。ハリウッドスターの本領発揮というわけか(彼の全盛期はサイレント映画だったかもしれないが一応トーキー作品も出ているので……)。

 

・客室での光子の場面

ファンク版:「ねえお父様、あたしもう東京には居たくありません」という光子の台詞、そのまま場面転換。

伊丹版:同じセリフの後、タクシーでホテルを後にする巌父子の場面が入る。それと入れ違いで輝雄の家族が家を出、ホテルへと向かう様子も描かれる。(ファンク版だと輝雄の家族がいきなりホテルにやってくる場面へ飛ぶのでやや唐突感がある)

 

・輝雄と妹の場面

ファンク版:川辺で語らう輝雄と妹。欧州生活が長くて日本に慣れない、という輝雄に「向こうの春はこんなにきれいかしら?」と言う妹。以降、日本のきれいな春模様の映像が続く。

伊丹版:上記のシーンは無し。その後に続く能、相撲といった怒涛の日本の伝統文化シーンも無かった気がする。

 

・輝雄妹の洗顔シーン

ファンク版:泡で顔を洗う。何故か耳の中まで洗う。

伊丹版:上記のシーンは無し。逆にファンクはどういう意図で挿入していたのか気になる。

 

・大和邸で光子が涙を流す場面

ファンク版:婚礼衣装を出していた光子が女中に「持っていって頂戴、もう要らなくなってしまったから」と言う。の割には後ほどゲルダに婚礼衣装を見せる場面で再び戸棚にしまわれているのでよくわからない。

伊丹版:上記の場面は無かった気がする。

 

・大和邸でゲルダが食事をする場面

ファンク版:ゲルダが箸を使い慣れておらず、光子がゲルダに箸の使い方を教える。

伊丹版:ゲルダは箸で普通に食事をしている(光子が教える場面はなし)。

 

・巌とゲルダが海辺にいる場面

ファンク版:巌が「嵐が近づいています、あなた方には東から、我々には西から。どうかお国に戻られたらお伝え下さい、岩だらけの国を守っている民族がいると」といった趣旨を語る。音声が早川雪洲じゃないのでアテレコだと思う。おそらく嵐=共産主義(ソ連)。

伊丹版:なし。

 

・光子が火山に向かう場面

ファンク版:日本の風景(神社の鳥居、舞妓、桜)などが映る。電車で浅間山へ向かう。

伊丹版:バスで浅間山の麓まで行く。

交通経路が違って興味深いが、もちろん京都の大和邸からふらっと浅間山までは行けない。

 

・光子の不在が発覚する場面

ファンク版:輝雄が光子の部屋に向かうも不在。女中が「婚礼の衣装がございません」といい、輝雄は大和邸を飛び出す。

伊丹版:不在に気づいた女中が報告に来た(多分)。その場にいた親族一同で探す。輝雄が光子の部屋に行き、辞世の句と山で撮った写真の存在に気づき、山へと向かう。

 

・火山の場面

ファンク版:光子が婚礼衣装を身にまとっていざ身投げ、というところで輝雄が追いつく。火山が噴火する中で下山。続くシーンでは琴を弾く光子と療養中の輝雄が描かれ、ゲルダからの手紙も届く。

伊丹版:光子は身投げをしようとしたところで気絶し、火口の縁で倒れる。輝雄がやがて追いつき、光子を伴って下山。山小屋で光子が気がつく。琴の場面はなかった気がする。

 

覚えている範囲では以上が相違点なはずである。観てから2ヶ月近く経過しているため記憶がおぼろげになってしまった。

個人的な感想として、私は伊丹版のほうが好きに思った。伏線も丁寧に用意されているし(光子の山へ行く理由とか、輝雄の親族の行動経過が描かれている点など。その点ファンク版はかなり唐突に感じられる場面展開が多かった)、あとは純粋に早川雪洲の出番(というか台詞)が多い。DVDなど圧倒的にファンク版が多いのが不思議に思った。ドイツ国内で上映するために大量にフィルムが流通したのだろうか。当時の新聞記事にあたってみると日本とドイツ以外の諸外国でも上映する気ではあったもののあまり買い手がつかなかったようなので、英語で作られた伊丹版はファンク版とくらべて上映の機会に恵まれなかったのかもしれない。

あとはどの場面か明確に言えないので上記の相違点一覧には書かなかったのだが、伊丹版の方はマッチカット?(たとえば回る風車に回転する車のタイヤをオーバーラップさせるような)が多かった気がする。それからモチーフ(ホテルヨーロッパの回転扉が回るカットなど)を繰り返し使用していて、言語の異なる国で上映することを前提にしている=台詞に頼ったストーリー展開は制限される中で特定の映像に意味を持たせて話を進めようという意図が感じられた。そうした私の推測が正しいかは知りません。

ところで、この映画についてナチスの宣伝相ゲッベルスが「日本を知るにはいいけどめっちゃ長い(意訳)」と日記に書き残しているらしい。1時間46分の映画なので、このくらいの長さの作品は当時ないわけではなかった*1と思うのだが、ストーリーの進展に寄与しない風景ショットが多いので長く感じるのはとてもわかる。私としては伊丹版はけっこう楽しく観たが、最後の火山の場面はどちらのバージョンでも冗長に思えてしまった。

『新しき土』、早川雪洲原節子が親子設定でキャスティングされているのがとても良いなと毎度思いながら観ている。超絶美形親子すぎん? 
普段あまり邦画は観ないのだが、せっかくこの作品で原節子という俳優に出会えたので邦画も観たいな~と思い始めた。『青い山脈』も鑑賞したのでその感想もまたいずれ。

*1:それこそ『意志の勝利』など1時間54分ある