郵便配達はベルを鳴らさない

平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

変しい変しい私の変人 『青い山脈』感想

私が『青い山脈』なる映画を知ったのは10年ほど前のことである。

某携帯電話会社のCMで自転車を漕ぎながら、タレントと白い犬がメロディを楽しげな口ずさんでいる。それがなんの曲か考えることもしなかったが、当時まごうことなきおチビであった私はそのメロディラインだけはなんとなく覚えていた。
お盆、親の実家に帰省した際にふとそのメロディを口ずさむと、祖母が「聞き覚えがある」と言い始めた。CMでやってたよね、と返すと「CMは知らないけどぜったいに他で聞いたことがある」と主張をしてきた。その場では思い出せないようだったので話は終わり、私もすっかりこのやりとりを忘れていた。

数週間後、自宅でのんびりしていると祖母から電話がかかってきた。めったに向こうから電話をかけないというのにどうしたことだ、と出てみると「あの曲を思い出した。『青い山脈』だ」と教えてくれた。青い山脈と言われてもまったくピンとこない。母が「昔の映画にそんなのあったね」とフォローをしてもわからないものはわからなかった。当時の私にとって映画はせいぜいハリーポッタージブリの二択であった。

時は流れ、好奇心でさまざまなジャンルをイナゴの大群のごとく飛び回り、その過程でなぜかサイレント映画を観、なぜか100年以上前の日本人ハリウッドスターに熱を上げ、なぜかそのまま手当たり次第に他の映画も観、をやっているうちに原節子という女優に出会った。『新しき土』で彼女の清らかな美しさに魅力を感じた私は、彼女の出演する他の作品もぜひ観たい、と思った。そんなときに折よく鑑賞の機会を得たのが『青い山脈』だった。前置き長くなっちゃった。

 

というわけで感想に移ろうと思う(ネタバレは容赦なくあります)。
以下あらすじ。

石坂洋次郎の同名小説を原節子池部良主演で映画化。映画も主題歌も大ヒットし、この後、何作ものリメイクが製作された。ある地方の町を舞台に、偽のラブレターに右往左往する人々をユーモラスに描いた青春映画。女学生の寺沢新子は、駅前の商店で店番をしていた六助と知り合う。英語教師の島崎雪子は新子あてのラブレターを見せられ、校医の沼田に相談する。学校ではこの問題に対処するため理事会まで開かれることになってしまう

映画 青い山脈 (1949)について 映画データベース - allcinema

 

左:新子(杉葉子)、右:島崎先生(原節子)

池部良が出ていたので、俳優をこれまでに観た役で認識する派閥(?)の私は許仙(『白夫人の妖恋』)じゃん!*1 と思った。『青い山脈』のほうが制作は先である。このとき30代だったらしいのに学生役だったと後から知って驚いた。

そして原節子の美しさに磨きがかかっていて眼福だった。『新しき土』では楚々とした雰囲気でまさに名家のお嬢様、いわゆる良家の子女といった佇まいだった。それに対して今作は蕾だった花が見事に開花したさまというか、華やかさがあって素敵だった。『新しき土』での彼女が桜だったら、『青い山脈』では牡丹のような。「東京の大学を出た先生」という設定もなるほどうなずける才色兼備のオーラだった。

 

さて、私がこの映画を観た中でひっかかったのは女性観のようなあたりである。
この映画が公開されたのは1949年であり、ものの考え方が2022年現在とはかなり違うのはわかるが*2、「これってどういう意図で描いたの?」と個人的に不思議になった箇所を述べてみようと思う。

作中に通称「たけのこ先生」が出てくる。藪医者の息子だからたけのこらしい。
彼が物語序盤の方で(要約すると)「地方の豪農から持参金付きの嫁でももらい、若い看護婦に手を付けて家庭内争議を起こす。歳を重ねて腹が出てくるとともに分別を身に着ける。愛人をひとりくらい囲ったって貫禄がついて悪くない」と将来の展望を述べ、原節子演じる島崎先生が平手打ちを食らわす。

私はこれを「島崎先生、妥当! もっとやれ!」と思いながら観ていた。男としての貫禄がなんぼのもんじゃい、腹が出てなくても分別くらいは身につけられるだろう。しかし、物語が進むうちに「おや?」と思い始めた。

ラブレター事件の解決を試みる島崎先生。それに協力し始めるたけのこ先生。最終的には事件は解決し、たけのこ先生はみんな(主要キャスト)とサイクリング*3に出かけ、そこで島崎先生にプロポーズ。島崎先生はそれを承諾して終了。

たけのこ先生の封建的将来設計、変わってなくない? WOWWOW

と思った。たしかに事件解決に力を貸してくれた点ではいい人間かもしれない。でも、愛人囲っちゃうぞ宣言をした男と結婚できるか? たけのこ先生の思想の変化も特に描かれていなかった気がしたが、島崎先生は本当にたけのこ先生と結婚して幸せになれるのか? と大いに疑問だった。

それと同時に、もしかして前述の島崎先生による平手打ちシーン、もしかして制作陣は「クソのような価値観の男に対する妥当な怒り」ではなく「東京の大学で勉強した意識高い系女ムーブ」のつもりで冷笑的に撮影したのか……? という可能性に思い当たってしまった。つまりは私が違和感を持った箇所について(たけのこ先生からの歩み寄りがない)、「島崎先生が歩み寄った(="意識の高さ"が"改善"された)」ということなのかもしれない。さすがに違ってほしい。
とはいえ昔は政治家などは女性関係が派手でも仕事ができればいいという価値観だった、というふうに親から聞いているので判断がつかない。
おそらくリアルタイム世代の祖母にどう捉えるか聞きたいが、10年の歳月はあまりに遠かった。

映画を公開された時代に観られることはとても貴重な経験なのかもしれない、と思い当たったし、最近やたら1940年代だとか50年代あたりの映画の偏食が著しい身としては映画館の映画も大切にしようと思った(最近トップガンは観た)。そして島崎先生はあと3日ほどたけのこ先生への返答をどうするか考えてほしい。

 

*1:好きな女がちょっと人外だったくらいで見捨てるなよ!と鑑賞時思ったので印象に残っていた。

*2:直接は関係ない話だが、以前に山口百恵の『赤い衝撃』を観た際にも1970年代当時の女子高生の進路が進学の他に就職、結婚もそこそこの割合いて驚いた。

*3:たけのこ先生は「きれいな女の人を自転車の後ろに乗せたがる」習性があることで知られており、島崎先生も案の定誘われている。それに対し、ラストの主要メンバー各々で自転車を漕ぎながら『青い山脈』が流れる場面は個々の自立性や対等さを表現しているようで良い場面だと思った。