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平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

ハリウッド、永遠の狂騒 『バビロン』感想

 

「セッシュウ・ハヤカワとその美しい妻ツル・アオキが住む素晴らしき城のような邸宅は、ハリウッドの映画村が地元紙の描写したような官能的なバビロンではないという事実を突きつけた」*1

『Night Life in Hollywood』(1922)の字幕のひとつである。

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この映画は、当時スキャンダルが続くハリウッドのイメージアップを目的に作られたらしい。
1920年代といえば「狂乱のジャズエイジ」である。ハリウッドもかなり強烈なエピソードが多く、ロスコー・アーバックルの事件なんかが有名である。早川雪洲の自伝になんてことないように「パーティで男女入り混じって裸でプールに入った」と書かれていたのを見たときは目を剥いた覚えがある。
ハリウッドをバビロンになぞらえる表現が存在するのを知ったのは、上記の映画字幕が出会いであった。この字幕はそうしたイメージを否定するものだが、私はかえって地元紙のその描写にうなずいた。なるほど、言い得て妙な気がする。

さてこの映画の100年後に登場したのが『バビロン』という、そのものずばりなタイトルの作品である。

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1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。果たして3人の夢が迎える結末は…?

というわけで以下ネタバレをします。

1. ストーリーの全体的な感想

作品全体のすごくざっくりとした感想としては、地獄の黙示録』みたいな流れで、最後一瞬『ニュー・シネマ・パラダイス』になって実は『雨に唄えば』のファンフィクションでしたといったような具合である。意味不明だね。
まず長い。3時間超えである。前半は天真爛漫さと生まれ持った才能でスターへ上り詰めるネリーや、ジャックの下で日々奔走するマニーなど、しっかり映画業界での様子が描かれる。上記のあらすじ通りである。そうそうこういうの観たくて来たんだわ、と思った。
が、ネリーがカジノで大金をすってしまったところからテイストが変わってくる。マニーは事態の解決のため、金を携えてカジノの元締め・マッケイに会いに行く。マニーはマッケイに連れて行かれ、地下の闘技場に行くのだが、このあたりから「これは一体‥‥何!?」と思った。『地獄の黙示録』でベトコンはサーフィンしないんだぜ! ナパームのニオイ格別! とやっていたところからカーツ大佐の王国に足を踏み入れたときの気分と似ている。どこぞの山奥から見つけてきたムキムキ男を「生まれついてのスターだよ」と興奮気味に称賛するマッケイ。ここでネリーの「スターはなるものじゃないの。生まれついてよ」という言葉を恐ろしいテイストでリフレインすな!
しかし、マッケイに渡したのは偽札であった。案の定バレたので逃走するが、ネリーとマニーは愛を語り合っている余裕があったら一刻も早く逃げてほしい。
一連の出来事から22年後、ロサンゼルスを去っていたマニーは再び戻ってくる(いいのか? 戻ってきても)。彼が映画館で観るのは『雨に唄えば』である。トーキーへの移行期、狂騒のあの時代を思い出したマニーは涙ぐんでスクリーンに釘付けになる。ここでこの映画は終わる。いいのか? それで‥‥。マニーの中では「いい時代だった」で終わっていていいのか? ハリウッドの壮絶な光と闇に翻弄されてちょっと『ニュー・シネマ・パラダイス』風に着地していいのか? と思った。ゲロだったり排泄物だったりモザイクだったり、ハードな表現を全面に出してきたわりには不思議な締め方だった。

2. キャラクターの感想

特に印象的だったキャラクターについて。
まず何をおいてもレディ・フェイである。アンナ・メイ・ウォンだった。
『モロッコ』のマレーネ・ディートリッヒを彷彿とさせる格好で登場する。メーキャップや中国系設定からアンナ・メイ・ウォンっぽいなと思っていたが、彼女の家がクリーニング屋という設定なのを観た時に「アンナ・メイ・ウォンじゃん!!!」と心の中で叫んだ。欧州に行くというのもそのままである。彼女について詳しくは別の記事に。

tochterdeskino.hatenablog.com

レディ・フェイの描写についてはいろいろ掘り下げが欲しかったところはある。
彼女はクリーニング屋を手伝い、映画の字幕をつける仕事もしている。となると、スターというほどのレベルの俳優ではないのだろうか。どちらかというとショーが主体なのだろう。いまいちつかめない。
そしてフェイの描写はそれこそアンナ・メイ・ウォンが映画の中でされていた描写の域を出ないと思った。別の記事でも触れた通り、アンナは「チャイニーズ・ヴァンプ」「ドラゴン・レディ」と称されるような妖しく神秘的な東洋人女性のステレオタイプを演じ続けた。本人はそれを嫌がって欧州に赴くことになった。しかし、この作品においてフェイはあくまでも"謎めいた女"である(クリーニング屋の店頭に現れる彼女の場面とかまさしく神秘的・謎めいた雰囲気を醸し出すようなものだったと思う)。アンナ・メイ・ウォンという俳優の存在にオマージュを捧げるというより、『アンナ・メイ・ウォン』という(表面上の)スタイルをなぞっているだけに見える。なんというか、サイレント映画の時代の要素のひとつとしてただ出したかった、みたいな。
当時の黒人差別やユダヤ人差別について製作者が自覚的な描写はあったが(シドニーの黒塗りやネリーの撮影の際のくしゃみ事件など)、アジア系へのそれは皆無である。先述の通り、排泄物やら吐瀉物やらを含めて容赦なく「描く」ことに重きをおいているようなこの作品で、「描かれない」ということはアジア系への偏見があった(ないしは今もある)という認識がないのかもしれない、とも感じる(上記の「神秘的な東洋人」というステレオタイプ的描写はもしかしたら「描く」の内に含まれるのかもしれないが、だったら作品世界の中ではなく『この作品自体』という枠でやったのはなぜだ)。アンナ・メイ・ウォンをモデルとしたキャラクターを出しているにも関わらず、アンナが直面していたアジア人差別については意識が極めて希薄だなと思った。

そしてジャック・コンラッド。盛りが過ぎんとしているスター俳優。
彼に対するエリノア(だったっけ! 別のシーンだっけ!)の「20年前(最盛期)と全く変らないわ」というコメント、個人的にうわ~~と思った。
私は以前から再三書いているように日本人ハリウッドスター・早川雪洲が好きなのだが、彼に関する記事を大量に読む中で同種の言葉をたびたび目にした(主にトーキー映画が主流になる1930年代以降)。この手合いの言葉は純粋な褒め言葉であるような気がしなかったのだが、このモヤモヤとまったく同じ気持ちが想起された。変わったからこそ励ましで「変わっていない」と言うのだろうな、と思う。
彼は最後に拳銃自殺をする。彼はフェイに向かって、先行きが不安定な友人のジョージ(女に振られるたび死にたくなるほど落ち込む)や妻のことを「救ってくれないか」と言う。でも結局一番救いが必要だったのはジャック自身だったんじゃないか‥‥。

その他。ロスコー・アーバックルとヴァージニア・ラップを彷彿とさせるキャラクターが冒頭に出てきた。ルドルフ・ヴァレンティノに言及があったのも嬉しかったし、グレタ・ガルボグロリア・スワンソンキートンハロルド・ロイドチャップリンゲイリー・クーパーも話題に上がっていた。早川雪洲出てこないかなあと思ったけど出てこなかった

3. まとめ(?)

監督が映画が好きらしいのはわかったし、音楽は良かった。が、そこにリスペクトがあるかと言われるとよくわからない。そしてハリウッドって案外100年経っても変わらないのかもしれないなと思った。ところで私はアンナ・メイ・ウォンの伝記映画が待ち遠しいです。以上。

*1:画像の方ではChinese Wifeと表記されているが、青木鶴子は日本人である