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平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

サイレントとトーキーの狭間 早川雪洲の英語は上手いのか

「日本人は英語が話せない」、実によく聞く話である。私も受験英語ならともかく、コミュニケーション手段としてはブロークンだ。な~~~にが世界共通語だよ

とはいえ、英語という問題は何も日本人にばかり降りかかるものではない。他の非英語圏の人間もまた然りである。母語の言語構造や発音との兼ね合いで、程度に差はあれど、英語を話すためには障害が付き物である。その一方で、英語が話せることの重要性は高い。とりわけ、ハリウッド俳優という職業の人間には。
映画というものは原始、目で楽しむものであった。現在でこそわざわざ音声のない映画を「サイレント映画」と呼ぶが、もともとはそれこそが「映画」だった。俳優たちは、その表情や仕草のみで演技をした。つまり、撮影時に何を話そうが、どんな物音を立てようが、それが映画という媒体に記録されることはない。

早川雪洲に関して言えば、こんなサイレント映画ならではの逸話がある。

淀川長治があるとき早川雪洲に会い、こう質問したという。
「『神々の怒り』で、あなたが家の裏で祈りを捧げながら叫ぶシーンがありましたね。あれは、なんと言っていたんですか」
『神々の怒り』(The Wrath of Gods, 1914)は、超ざっくり言うと、当時タブーとされていた異人種間の結婚が成就されようとしたため、神々が怒り、桜島が噴火するという筋書きの話である。雪洲が演じたのはヒロインの父で、劇中、娘とその想い人であるアメリカ人のために異教の神へ祈りを捧げるシーンがある。物語終盤のなかなか緊迫したシーンだ。
雪洲はそれに答えた。
「ああ、あれはね、撮影が長引いて昼になっていたものだから、腹が立って、『腹が減った、一体いつ飯を食わすのか』と叫んだら、スタッフは全員アメリカ人でね。当然日本語がわかるわけもなく、何か名台詞を吐いたとでも思ったらしい。すぐOKが出たよ」

この話を『神々の怒り』を観た後に知った私は、当然困惑した。あれ以来そのシーンを見ると「雪洲、お腹空いてても撮影頑張ったんだな……」という気持ちになる。食事、大事。
このエピソードが示すように、映画が無声であった当時、俳優がいかなる言語を話していても、たとえ腹が減ったと叫んでいても、必要な画さえ撮れれば問題はなかったのである。

しかし、1927年公開の映画『ジャズ・シンガー』によって、すべては覆された。

ワーナー製作のこの『ジャズ・シンガー』は世界初のトーキー映画であった。この登場以降、次々と映画はトーキーへと軸足を移した。映画史上最大の転換である。名作ミュージカル映画雨に唄えば』などに描かれるのも、まさしくこのサイレントからトーキーの大転換期を迎えたころの映画界だ。
そして『雨に唄えば』には、リナというサイレント映画スターが登場する。彼女は変わった声をしていて、今まで銀幕に登場してきた彼女の外見とどうにもイメージが合わない。新作トーキー映画のリナの声を新進気鋭の女優・キャシーが秘密裏に吹き替えることで切り抜けるが、物語最後でその事実が露見する。

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キャシーは自らの才能が日の目を見、主人公であるドンとも結ばれてハッピーエンド! というのが映画の主筋だが、ここでフォーカスしたいのはリナである。
キャシーの吹き替えた声をさも自分の声であるかのように振る舞っていたリナだったが、真実がバレてしまってはどうしようもない。リナは外見に似つかわない悪声の持ち主として、今後トーキー映画に出ることは叶わないだろう。いくら彼女がサイレント映画のスターだったからといって、演技もできて声もいい人間は探せばそこらじゅうにいるのだ。わざわざ吹替の手間をかけて旧時代の遺物を起用する必要はない。リナが輝けたのは、音のない映画の世界の中だったからこそだ。

サイレントからトーキーの移行期に実に多くの俳優が消えていった。『雨に唄えば』のリナは、まさにそういった俳優たちを象徴したキャラクターといえるだろう。声と外見が合わない、訛りがひどい、サイレント映画の大仰な演技が染みついてトーキーには不適格、そういった理由で、サイレント期に栄華を誇ったスターたちは銀幕から姿を消した。映画が声を得ると同時に、多くのスターたちは存在価値を失ったのだ。

「英語が話せない」、これも十分に表舞台から去る理由となった。


さて、私がある日、早川雪洲関連書籍を読んでいるとき、こんな引用記事にぶち当たった。

『龍の娘』に出演している早川雪洲支那娘アンナ・メイ・ワンは共に芸に英語が伴わないとの話だ。あれ丈け長く米国に居て英語が駄目なら日本のスター連もアメリカ・トーキー進出なんて野心を起こさない方が良さそうだ*1

これを読んだとき、私は怒った。

アンナ・メイ・ウォンは英語話せるが!?
彼女はアメリカ生まれアメリカ育ちの中国系三世であり、記事で言及のある『龍の娘』(Daughter of the Dragon,1931)でも流暢な英語を披露している。なんなら彼女はドイツ語とフランス語もマスターしているくらいの努力家だし、むしろ中国語が話せないくらいだが……。
さて、一方で早川雪洲は? といわれると、記事に対して「せやな」としか言えない。『龍の娘』で彼が話す英語は、英語弱者の私にはとても聞き取りやすいものである。つまり、かなりの日本語アクセントと表現して差し支えないと思う。
もちろん、私が欧州を旅行した際に使った壊滅的かつ災害的な英語発音より確実に綺麗である。でも「あ、日本人だな~」とほほえましくなるような感じだ。
百聞は一見に如かず、というわけで気になる方は以下からどうぞ。

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しかし、雪洲の英語が良くない評価を残されている一方で、私の手元にある野上英之著『聖林の王 早川雪洲』には、雪洲の英語の発音を賞賛するイギリス人評論家の存在が語られている。どっちだよ。
俳優にとって、綺麗な発音の英語というのはトーキー映画でも生き抜くための命綱である。これは雪洲の映画人生を追ううえでかなり重要なことではないか。なにしろ彼は当初、サイレント映画のスターとして銀幕に現れたわけだし。

雪洲の英語はいかほどのものだったのだろうか。その謎を解明すべく、調査班(わたしひとり)はネットの奥地へと向かった。

1.渡英時の新聞記事

さて、彼の英語に関して言及のある文献はいくつか見つかった。年代順に考えると、まずこれが最初のものだろう。彼が渡英した際の『日本のフェアバンクス』と題した新聞記事の一部抜粋である。

私は早川雪洲の到着後すぐに彼と会った。彼は映画界で『日本のダグラス・フェアバンクス』とでも呼べるであろう人間だ。彼は隙なく着飾った小粋な男で、撫でつけられた黒々とした髪、生き生きとした鋭い瞳をしており、それなりに上手い英語(quite good English)を話す*2

彼の英語は、注をつけたように「quite good English」と表現されていた。これを最初に読んだときに私はquiteを「かなり」という意味で捉えていて、「記者、雪洲の英語を超褒めてませんか?」と思った。
しかし、調べると、quiteの用法はアメリカとイギリスで異なるようだ。アメリカ英語ならば私の解釈(つまりveryと同義)が正しいが、イギリスの場合は「思ったよりも程度が甚だしい」という意味で使われるようだ。
つまりこの記事では「早川雪洲は(記事の筆者が予想していたよりも)英語を話すのが上手だった」というわけだ。東洋人にしては上手い、ということだろうか。一応文章は「それなりに上手い」と訳した。

英文法複雑怪奇と思ったが、同年のDundee Courier紙に「早川雪洲が語る『早川』の正しい発音」という内容の記事が載っていたので、言語を超える際の壁はどこにもあるようだ*3

2.『最後に笑う男』評

つづいては雪洲の初のトーキー映画『最後に笑う男』のレビューの抜粋である。『早川雪洲、「トーキー」の短編で再登場』とのタイトルだ。

早川雪洲の立ち居振る舞いは非常に素晴らしく、発話が彼の演技に寄与するところは何もなかった。彼のセリフは訛りのある発音で明瞭に話されたが、多くの沈黙の画面で活力に満ちていた彼の表情よりも、はるかに表現力を欠いていた*4

私はこの作品を観たことがないので、この筆者の意見と自分の意見を比べることができない。『最後に笑う男』の次作が先述の『龍の娘』なのだが、それで観た雪洲のセリフの演技を考えると「むしろ表情より声色の方が感情豊かだったのでは?」というふうには思う。
彼の英語については「訛りがある」と書かれている。しかしハリウッドを離れている間に舞台俳優としての経験を積んだ甲斐あってか、「明瞭である」ともある。サイレント映画のみに出続け、公衆の面前で「役」として話すという経験をしたことのない俳優もいた中で、その明瞭さは大いにアドバンテージだったのではないだろうか。

3.『龍の娘』評

そして『龍の娘』に関するレビューである。『80分世界一周』と題したイギリスの新聞記事の一部抜粋を載せよう。

『龍の娘』で特筆すべきは、かつてサイレント映画の時代に人気を博した早川雪洲の復帰作ということである。往年の日本人スターである彼は、探偵として素晴らしい演技を見せている。彼の訛りもなかなか魅力的(rather attractive)*5

ここで私はまたしてもイギリス英語の壁にぶち当たった。「rather attractive」のratherの用法である。
ratherはアメリカ英語で主に「むしろ」と使う一方で、イギリス英語では「かなり、ずいぶん、少々」のような程度を表すために使うそうだ。好ましくないことを表現するときにはそれを和らげる意味で、好ましいことは「思ったより」という意味になるとのこと。

4.『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』

いっとき早川雪洲との仲が噂された日本人オペラ歌手・田中路子の伝記に、彼女による雪洲の語学評がある。

あなたはフランス語は話せないし、英語はアメリカ生活が長いからいちおう話せるけど、主演者としてむずかしいセリフをこなすには力不足だと思います。映画はすべてトーキーになったのですもの、国際的な映画俳優にとって語学力はきめてですよ*6(p98)

かなり的確な分析ではないかと個人的には思う。フランス語はさておき、英語についてはこれまでの文献の中でいちばん腑に落ちる。
彼は『戦場にかける橋』では後半ほぼセリフらしいセリフはないし、『東京暗黒街・竹の家』ではセリフがすっかり吹き替えられている。配慮のようなものが垣間見えなくもない(『三人帰る』では主人公とかなり会話をしているけれど)。

以上が今のところ私の見つけた雪洲の英語に関する文献である。
残念ながら野上英之氏の書いている「雪洲の英語の発音は素晴らしい」というイギリスの評論には出会えなかったが、私のリサーチ不足は大いにあると思うので、今後も探し続けたいと思う。

 

さて、私は冒頭で「綺麗な英語はトーキー映画で活躍するには不可欠」と述べた。しかし、雪洲の英語は訛りがあるにも関わらず、彼はトーキー映画にも出演し続け、さらにはアカデミー賞ノミネートまで至っている。それはなぜか。

ひとつは、やはり舞台での経験である。雪洲は日本人で初めてブロードウェイの舞台に立ち、さらには英国王室の招聘で演劇を披露している。ついでに言うと帝国劇場で主演を張ったこともある。もうこれは立派な舞台俳優だ。ここで「セリフを伝える」という技量は大いに培われたのではないかと思う。

そしてもうひとつは、彼が日本人であること。早川雪洲という俳優が、黄禍論に則ったステレオタイプ的キャスティングでスターダムを駆け上がったというのは再三書いた。彼に要求されていたのは「日本人らしさ」もしくは「アジアらしさ」の体現である。
昔も今も、英語の映画に非英語圏のキャラクターが登場すると、その言語特有の訛りで話すことが多い。『バルジ大作戦』のヘスラー大佐もイギリス人俳優がドイツ語訛りで演じているし、『オペラ座の怪人』のカルロッタ・ジュディチェルリとかもそうである*7
つまり、それと似たようなもので、主にアジア人の役を演じる雪洲の英語にある程度の日本語訛りがあっても「日本人らしさ」として受け止められたのではないかと思う。彼の英語は意思疎通には問題ないようだし、セリフがわかれば許容されたのでは。

逆に、英語圏の出身なのに、出身地による訛りがある俳優とかは大変そうである。口にビー玉を詰め込むまではいかずとも、あの手この手で強制するんだろうか。スペインの雨は主に平野に降る、ってね!

*1:読売新聞1931年9月1日11ページ

*2:1923年11月12日 Aberdeen Journal

*3:ちなみに彼の名前の発音を英語風に表記するとHi-a-Kow-ahらしい。「我々の多くにとっては障害となる」とも書かれていたので、Hayakawaをそのまま早川と日本語らしく発音するのはイギリス人には難しいようだ。

*4:The Manchester Guardian, 1930年5月15日

*5:Dundee Courier 1932年5月31日

*6:角田房子『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』新潮社、1982年

*7:普段観る映画が1910~60年代なせいで2000年以降の映画は全部最近だと思っている節があるんですが、世間一般的にはどうなんでしょう

19世紀ヨーロッパ全部載せ『アンデッドガール・マーダーファルス』

最近読んだものについて書く。

bookclub.kodansha.co.jp

吸血鬼に人造人間、怪盗・人狼・切り裂き魔、そして名探偵。
異形が蠢く十九世紀末のヨーロッパで、人類親和派の吸血鬼が、銀の杭に貫かれ惨殺された……!? 解決のために呼ばれたのは、人が忌避する"怪物事件"専門の探偵・輪堂鴉夜と、奇妙な鳥籠を持つ男・真打津軽。彼らは残された手がかりや怪物故の特性から、推理を導き出す。


生首探偵・半人半鬼・メイドが体を取り戻すためヨーロッパを巡る
謎に満ちた悪夢のような笑劇(ファルス)……ここに開幕!

一言でいうと和製『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』(私は後述の映画版しか観たことないけど)といったような感じ。文学作品版アベンジャーズ的なやつである。シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、オペラ座の怪人八十日間世界一周。それからフランケンシュタインの怪物(を模した怪物)、切り裂きジャックアレイスター・クロウリーやらなんやら、19世紀ヨーロッパ全部載せか?
2023年6月現在、3巻まで出版されており、7月には次巻が出るらしい。予約した。
 

以下つらつら本の感想を述べていく。

ネタバレかもしれないが、
「めちゃくちゃエルキュール・ポアロっぽいな」と思うキャラクターや「これフー・マンチューだよな?」といった人物もちらほら。あとエポック紙の新聞記者も登場するのだが、「エポック紙って『オペラ座の怪人』原作でエリックの訃報が載った新聞じゃん」と思い至り、おそらく作者が想定していない箇所で情緒が破壊された。今後はどんなキャラクターが登場するのか楽しみである。

そして以前書いた記事(前述の『リーグ・オブ~』の映画版感想)↓でも触れたが、クロスオーバー作品には難しい点がある。それは「登場人物が多くなるがゆえに個々のキャラクターの描写が雑になってしまう場合がある」という点だ。

クロスオーバーってたいへんだ 『リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い』感想 - 郵便配達はベルを鳴らさない

映画と小説なので同じ俎上に載せるのも違うと思うが、『アンデッドガール~』におけるキャラクター描写は今のところ「良い」なと思っている。
中でもホームズが別勢力の人間に対して、ワトソンへの「無能」呼ばわりを撤回するように主張する場面は読みながら拍手喝采した。そういう細かいところ~~~!!
ただでさえ登場人物が大量で、主人公たちや19世紀文学作品の人物のみならず、保険機構《ロイズ》や事件の関係者など入れ替わり立ち替わりなのによくぞ……。
個人的にはアルセーヌ・ルパンとファントムの怪盗怪人コンビが好き。彼らについてもそのうちもう少し掘り下げがあるといいな。期待。

ただし、何もかも原作や元ネタと同一というわけではない。
例えば、ホームズとワトソンはドイルの小説シリーズで描かれた彼らよりやや後年の設定らしい。そしてファントムはペルシャ出身設定らしいし20代のようだ*1
あと私が一番設定に「?」が浮かんだのが、2巻に登場するフィリアス・フォッグ。ジュール・ヴェルヌ八十日間世界一周』の主人公。彼がかの偉業を成し遂げて30年後ということで登場するのだが、傍にいるのは召使いのパスパルトゥー。あの、アウダ姫*2は……? と思いながら読み進めたがアの字も出てこなかった。このフォッグ氏、もしかして何らかの乱数調整でインドでサティーに遭遇しなかったタイプのフォッグ氏?世界一周RTA 何周なさいました?? と頭が混乱した。いやでもエルキュール・ポアロもどきもちょっと登場しただけで終わるわけないし、アウダ姫も何がしかの形でそのうち出てくるよね……? と信じている。私は原作でフォッグ氏とアウダ姫が結ばれる場面が大好きなんだ。頼みます。4巻以降に希望を託す。

そういえばそういえば、7月からはアニメも放送されるそうな。普通にめっちゃ楽しみである。おわり。

undeadgirl.jp

*1:原作によるとファントムはルーアン出身で、のちのちペルシャの皇帝に仕える。パリオペラ座の建設に携わったときには30くらいは行っていたのではないだろうか

*2:フォッグ氏が旅の途中で助けたインドの藩妃

最近観たもの『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』『ラストエンペラー』

近頃バタバタしていたのでとても久しぶりの更新になってしまった。
社会人って本当に時間がない。働きながら趣味やその他生活を充実させている方々を尊敬するばかりである。

近頃観たものについてつらつら書く。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

まずこちら。

www.youtube.com

経営するコインランドリーの税金問題、父親の介護に反抗期の娘、優しいだけで頼りにならない夫と、
盛りだくさんのトラブルを抱えたエヴリン。そんな中、夫に乗り移った“別の宇宙の夫”から、
「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」と世界の命運を託される。
まさかと驚くエヴリンだが、悪の手先に襲われマルチバースにジャンプ!
カンフーの達人の“別の宇宙のエヴリン”の力を得て、闘いに挑むのだが、
なんと、巨悪の正体は娘のジョイだった…!

一言で表現するなら「もうめちゃくちゃだよ~!」という感じ。ぶっ飛びまくりである。世界線が。冒頭の場面で中国語(おそらく)と英語が入り交じる会話が展開されていて、そこでもう私は頭がグラグラした。本筋はそれどころじゃないぞ。
あと私はアンナ・メイ・ウォンが大好きなので、中国系移民の暮らしぶりが興味深かった。まずエヴリンの家がコインランドリーを経営していることに「あ~」となった*1。そしてエヴリンの父が中国語話者、エヴリンと夫は中国語+ある程度の英語、娘ジョイがバリバリの英語話者なことにも「移民って世代を経るとこうなるのか」という気づきがあった*2

そしてアカデミー賞受賞! めでたい!
授賞式に先立ってのインタビューで、エヴリンの父を演じたジェームズ・ホン(御年94)がイエローフェイスやパールバックの『大地』の映画版について話していたので、リンクを貼っておく。字幕はないけど。共演者としてクラーク・ゲーブルの名前が出てくるのにびっくりする。

www.youtube.com

キー・ホイ・クァンミシェル・ヨーもおめでとうすぎる。特に主演女優賞は、過去にマール・オベロンのノミネートはあったものの、アジア系の受賞は初めてだそう。
私は一生早川雪洲やアンナ・メイ・ウォンの話をし続けているので、彼らがさんざんっぱら苦しんで葛藤したステレオタイプキャスティングだとか、アジア系は悪役しかできないとか、そうした歪さが100年かけて好転してきたのが嬉しいなとしみじみ。

ラストエンペラー

ラストタンゴ・イン・パリ」「1900年」で知られるイタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督が清朝最後の皇帝・溥儀の生涯を映画化し、1988年・第60回アカデミー賞で作品賞をはじめとする9部門に輝いた歴史大作。溥儀の自伝「わが半生」を原作に、激動の近代史に翻弄された彼の人生を壮大なスケールと色彩豊かな映像美で描き出す。
1950年、ハルピン。ソ連での抑留を解かれ母国へ送還された大勢の中国人戦犯の中に、清朝最後の皇帝・溥儀の姿があった。手首を切って自殺を図った彼は、薄れゆく意識の中、波乱に満ちた自身の半生を思い起こしていく。

かねてから観てみたいとは思っていたが、『映像の世紀』で満州帝国回を視聴したこと、また友人がこの作品を鑑賞していたのでようやく観るに至った。
英語で話が進んでいくのには面食らったが、よくあることである。なにせドイツ軍人が英語で話す世界線がごまんとあるし、ちょっとくらい紫禁城で英語がオフィシャルな言語であってもおかしくない。あとで友人と「宦官って現実には英語が話せたのかな」「英国人と紫禁城の宦官の会話って成り立つの?」「じゃああの眼鏡の話どうなるの」などと話し合った。
ピーター・オトゥールが出ていたのにびっくりした。『アラビアのロレンス』(全編まだ観られていない)や『将軍たちの夜』のギラギラとした容貌のイメージが強かったが、今回は年を重ねてなんだかマイルドな雰囲気で不意を衝かれた気分。
ベルトルッチ作品は以前『暗殺の森』を観たことがあって、時系列を行き来する構成が共通している気がした。一作しか観ていないのに共通点を考えるのもどうかと思うが。あと『暗殺の森』で主人公が階段を登っていく影だけが映るシーン(けっこう冒頭の方)がなぜだか印象に残っていて、ライティングにこだわっているのかなあとぼんやり思ったのだが、今作は色彩が印象に残った。なんといっても黄金色の豊かさ。ラストシーンなんか特にそうである。
それからこれは脇道にそれる話だが、大島渚が制作を予定していて資金難で頓挫した『ハリウッド・ゼン』なる作品がある。早川雪洲と当時二枚目スターとして人気を博したルドルフ・ヴァレンティノを描いた作品だったらしいのだが、この作品で早川雪洲としてキャスティングされていたのが坂本龍一(ご冥福をお祈りします)。『ラストエンペラー』では甘粕正彦を演じている。そして雪洲の妻・青木鶴子を演じるはずだったのが、今作で溥儀の第一后を演じているジョアン・チェン。
『ハリウッド・ゼン』、観たかったんだが~~~~~!!!!!????

魂の叫びで〆ることとする。
途中で甘粕正彦が「日本こそがアジアを支配する民族」みたいな話をブチ上げていたの怖かったな。政治上の大義名分として「仮」に掲げていたものを、時代を経るにしたがって後の世代がマジで信じるようになっちゃったんだろうな、という話を友人とした。思想とかは詳しくないので知らないです。
あとベルトルッチ関連で思い出したけど、『暗殺のオペラ』って作品もあるらしいよね。毎回自分が鑑賞済みなのは森かオペラかわからなくなる。オペラの方も観たい。

ものすごくとりとめのない文章になってしまった。「最近ブログ書けてないな」という気持ちはずっとあったのだが、早川雪洲の誕生日にあたって「今日書かないでいつ書くっていうんだよ」の気持ちになった。早川雪洲お誕生日おめでとう。早川雪洲を祝う気持ちだけで勢いでキーボードを叩き続けている。
そういえば人間誕生するということはいつか死ぬということでもあるが、ヘルムート・バーガーが亡くなったそうですね。ちょっとショックである。『ルートヴィヒ』の彼は本当にきれいで(その美しさ端正さが、水彩画を上から水でさらにぼかすかのように病みやつれていく姿も印象的だった)、ロミー・シュナイダーエリザベートとの並びがすごく良かった。『地獄に堕ちた勇者ども』が未履修であることがちょっと許されない状況になってきた。

話がしっちゃかめっちゃかなのでおしまいにする。

*1:アンナの家もクリーニング屋だった。中国系移民あるあるなのか。

*2:アンナ・メイ・ウォンは中国系三世で、中国語は話せなかったらしい。

早川雪洲の容貌についてつらつらと書いた

私は日本人ハリウッドスター・早川雪洲が好きである。早川雪洲卒業論文を執筆したくらいには好きである。

『チート』の早川雪洲。ご覧の通りとても美しいですね。

そんなわけで、彼に関する資料やら文献をぼちぼち当たった。早川雪洲が「美男子」であるという描写にも度々出くわしてはニヤニヤしていた。例えば以下のサイトなんかそうだ(この中の「日本人としてもっとも早く活躍した国際的映画俳優」という表現が適切かどうかは微妙だが……鶴子夫人のほうがキャリアが長いので……)。

www.ndl.go.jp

上記のサイトを足がかりにして、つらつらと今まで出くわしてた早川雪洲の外見描写をまとめ、ざっくり考えたことを述べるなりしたいと思う。ようは私の卒論の戦後処理である。おかげさまで気の抜けたタイトルである。二本書かせてもらえたならどんなによかったでしょう。

さて、上記サイトに引用されている『当世書生気質』の「頗る上品なる容貌」である主人公の外見描写から、近代日本の美男子の基準は「鼻が高いこと・眼が涼しいこと・口元が尋常である(引き締まっている)こと」であることがうかがわれる。
また、同じサイトには、当時の国際基準の「いい男」の代表例として早川雪洲の名前が挙げられている。彼の美貌とキャリアの関係についてまず考えよう。

雪洲がスターダムに上り詰めたのは、その顔の美しさがきっかけであった。彼は『チート』(The Cheat, 1915)で悪役の日本人富豪を熱演し、彼の醸し出した「エキゾチックな魅力」と「神秘的で残忍なセックス・アピール」*1は全米の女性を魅了した。『チート』の興行収入は当初の予想を大きく上回る300万ドルにものぼり、以降彼は主演俳優としての立ち位置を盤石にした。『チート』を通した彼のキャリアの変容と顔の美しさの関わりについて、当時の映画雑誌は以下のように述べている。

映画の主人公、つまり人気アイドルを目指す俳優なら、ハンサムな顔を持っていることを悔やむことはないだろう。早川雪洲もこの例に漏れないことは疑いない。しかしまた、この映画(引用者注:チート)の初期の観客はこの狡猾な悪役に美しさを求めていなかったのも事実であろう。もし彼が悪役を演じ続けていたら、彼の美しい顔はアイヌの口ひげに覆われ、今や何の疑問もなく劇場に通う女性たちの人気を得ることもなかっただろう。*2

つまり、早川雪洲の美しさは『チート』の悪役に想定外の相乗効果をもたらし、彼の演じる役に新たな方向性を切り開いたということになる。この頃のアジア系俳優は黄禍論の影響から悪役を演じるのが基本であったが、雪洲は悲恋物の主演が増えた*3

1922年に行われたスイスの映画評論雑誌によるスター人気投票では、早川雪洲が悲劇俳優部門の1位となっている。死後『ニューヨーク・タイムズ』紙に「神秘的でハンサムな主演俳優」*4であったと評されていることからも、彼の顔は欧米人から見ても美しいものであったことがわかる。

ここからは、早川雪洲の顔の具体的な特徴を同時代の文献から洗い出し、先述した日本の美男子の基準と照らし合わせて見ていく。
まず、雪洲の鼻については「彫刻的に調った鼻」*5との記載がある。
次いで眼について、「おそらく、手入れに余念のない多くの舞台女優が、彼のしわのない肌、澄んだ目、白い歯をうらやむかもしれないことを、彼はまったく意識していないのだろう」*6と書かれていること、またファンの女性たちが雪洲の魅力的な部位に「涼しい、鋭い眼」*7「水晶のやうな美しい瞳」*8を挙げていることから、雪洲の眼は涼しげで美しいと捉えられていたことがわかる。また、彼の口元については「美しい口」*9と表現されている。
そして、時代は多少下るが、1930年の新聞記事が雪洲の顔について詳細に描写しているので、以下に引用する。

広い額、高くキッとした鼻、薄く小さく引き締まった唇、長い顎、そしてその長い顔の中で、最もよく持ち主を活かしているものは、ジッとすわる黒目、らんらんと輝く白眼、それに相応せるまぶたの切れ。*10

これらのことから、早川雪洲の顔は今節の冒頭に述べた美男子の基準である「鼻が高いこと・眼が涼しいこと・口元が尋常であること」に適合していることがわかる。彼は日本においても、また世界においても美しいとされるまさに”国際基準”の顔の持ち主であったといえる。

また、彼の体格や姿態についてもとりわけ日本国内では讃美の対象であった。映画研究家の宮尾大輔によると、当時の日本の映画雑誌は雪洲について「早川は平均的な日本人俳優より抜きん出て大きく、アメリカ人の体格に近い」と述べ、「アメリカ人俳優のようなエクササイズおよびアメリカ人的な自然な表情を獲得するための訓練を毎日欠かさない」と記述している*11。当時の日本では、欧米文化と美意識の流入に伴う白人コンプレックスが生まれていた。それだけに「西洋的」な身体をもつ雪洲は理想像とされたのであろう。
雪洲の身体の「西洋的」側面については、当の欧米においても指摘されている。イギリスの新聞では「多くの東洋人とは異なり、彼はいつもいきいきとした表情で、人情味のある笑みを浮かべている」*12、フランスの映画雑誌には「身長1.70m、体重70kgと、日本人にしては長身だ」*13と記述がある。こうしたメディアの描写は、当時欧米において野蛮であるとみなされていたいわゆる「東洋」のイメージと、スターである早川雪洲を差別化する意図のものであったと考えられる。日本のメディアによる雪洲の「西洋的」身体の称揚と、欧米メディアによる雪洲の適度な(西洋人から見た彼のエキゾチックな魅力を失わない程度の)「西洋化」は、いずれも「東洋」と一線を画す存在としての雪洲を讃美するものである。いかに日本の「美醜観」が欧米のそれに影響を受けたかが示されているといえるだろう。

ちなみに、冒頭に挙げたサイトでは、他の「いい男」として外交官の陸奥宗光が例に挙げられていたほか、「外交家の最初にして、又最終の条件は顔面の優秀にある」という言葉が紹介されている。
この外交官と美貌について、早川雪洲にも関連する話がある。雪洲の結婚式で仲人を務めた長谷川新一郎がその著書『在米邦人の観たる米国と米国人』において、横田千之助*14が「君、雪洲は役者ではないよ。ああいう外務大臣が欲しいものだ」*15と発言した旨を書き記している。
尤も、この発言は雪洲の美しさを評価したというよりも、雪洲が世界を舞台として精力的に活動している点を念頭に置いてのものであろう。実際に、雪洲はハリウッド時代に所有していた32部屋の豪邸、通称「グレンギャリ城」を日本領事館の来賓接待に貸し出し、広く在米邦人社会に貢献していた。また、ハーディング大統領とホワイトハウスで会談するなど、政治家との繋がりも多くあった。これらを理由に、ハリウッド映画史家マーク・ワナメーカーは、雪洲が日米外交に何らかの関わりがあったのではないかという自説を披露している*16。そうした説が考えられるほど雪洲が欧米と渡り合えたのは、やはり彼の神秘的な美しさによって確立されたスターダムがその土台にあるためであろう。
外交官であり美しさを称えられた陸奥宗光と、美しい顔を持ち外交官にと望まれた早川雪洲の存在は、なんとも興味深い類似を見せているような気がする。


と、いうわけでこのあたりでシメとしたい。もともと卒論の一部として書くなら、を仮定して練った文章なので、脚注の多さや若干の硬さはご愛嬌である。卒論本体のテーマを「早川雪洲の顔」とかにして書いたほうがいっそ筆がもっと乗っていたかもしれない。冗談だが。

うかうかしているうちにアカデミー賞の発表も終わってしまった。ミシェル・ヨーキー・ホイ・クァンの快挙は本当にめでたい。ジェームズ・ホンがインタビューでたびたびイエロー・フェイスや『大地』の話に触れるので、それを見つつアンナ・メイ・ウォンや早川雪洲にも思いを馳せてしまうわたしである。
次のブログはおそらくエブエブの感想になる気がする。

*1:木全公彦「世界はなぜ早川雪洲にひれ伏したのか」『東京人』2013年4月号、p116-123

*2:Sunset Magazine: Central Edition 1916-07: Vol 37 Iss 1 : Free Download, Borrow, and
Streaming : Internet Archive p23 https://archive.org/details/sim_sunset-central-west-edition_1916-07_37_1

*3:相手役のほとんどが白人女優であったが、当時異人種間恋愛は禁忌とされていたため、雪洲が演じることのできた筋書きは恋愛が成就しないもの、つまり悲恋物に限られていた。

*4:

https://www.nytimes.com/1973/11/25/archives/sessue-hayakawa-is-dead-at-83-silents-star-was-in-river-kwai-no.html

*5:霞浦人『早川雪洲 傑作集』(春江堂、1922年)p62

*6:Sunset Magazine: Central Edition 1916-07: Vol 37

*7:森岩雄早川雪洲』(東洋出版社、1922年)p57

*8:早川雪洲 傑作集』

*9:早川雪洲

*10:朝日新聞「雪洲の眼 帝国劇場のウォング/鬼太郎」1930年9月8日

*11:宮尾大輔「太平洋のはざまで――早川雪洲サイレント映画期のスターダム」『国際交流』(26)(国際交流基金、2003年) p40-41。孫引きになっていてむずがゆいので元ネタを探している。

*12:Among the Movies;Hully Daily Mail 1921/2/23

*13:Le Courrier des cinémas : organe indépendant d'informations cinématographiques ["puis"
organe officiel du Syndicat des directeurs de cinéma] 1926-03-26

*14:立憲政友会所属の政治家。加藤高明内閣で第28代法務大臣を務めた。

*15:長谷川新一郎『在米邦人の観たる米国と米国人』(実業之日本社、1933年) p403

*16:鳥海美朗『鶴子と雪洲 ハリウッドに生きた日本人』(海竜社、2013年) p143-144

ハリウッド、永遠の狂騒 『バビロン』感想

 

「セッシュウ・ハヤカワとその美しい妻ツル・アオキが住む素晴らしき城のような邸宅は、ハリウッドの映画村が地元紙の描写したような官能的なバビロンではないという事実を突きつけた」*1

『Night Life in Hollywood』(1922)の字幕のひとつである。

youtu.be

この映画は、当時スキャンダルが続くハリウッドのイメージアップを目的に作られたらしい。
1920年代といえば「狂乱のジャズエイジ」である。ハリウッドもかなり強烈なエピソードが多く、ロスコー・アーバックルの事件なんかが有名である。早川雪洲の自伝になんてことないように「パーティで男女入り混じって裸でプールに入った」と書かれていたのを見たときは目を剥いた覚えがある。
ハリウッドをバビロンになぞらえる表現が存在するのを知ったのは、上記の映画字幕が出会いであった。この字幕はそうしたイメージを否定するものだが、私はかえって地元紙のその描写にうなずいた。なるほど、言い得て妙な気がする。

さてこの映画の100年後に登場したのが『バビロン』という、そのものずばりなタイトルの作品である。

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1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。果たして3人の夢が迎える結末は…?

というわけで以下ネタバレをします。

1. ストーリーの全体的な感想

作品全体のすごくざっくりとした感想としては、地獄の黙示録』みたいな流れで、最後一瞬『ニュー・シネマ・パラダイス』になって実は『雨に唄えば』のファンフィクションでしたといったような具合である。意味不明だね。
まず長い。3時間超えである。前半は天真爛漫さと生まれ持った才能でスターへ上り詰めるネリーや、ジャックの下で日々奔走するマニーなど、しっかり映画業界での様子が描かれる。上記のあらすじ通りである。そうそうこういうの観たくて来たんだわ、と思った。
が、ネリーがカジノで大金をすってしまったところからテイストが変わってくる。マニーは事態の解決のため、金を携えてカジノの元締め・マッケイに会いに行く。マニーはマッケイに連れて行かれ、地下の闘技場に行くのだが、このあたりから「これは一体‥‥何!?」と思った。『地獄の黙示録』でベトコンはサーフィンしないんだぜ! ナパームのニオイ格別! とやっていたところからカーツ大佐の王国に足を踏み入れたときの気分と似ている。どこぞの山奥から見つけてきたムキムキ男を「生まれついてのスターだよ」と興奮気味に称賛するマッケイ。ここでネリーの「スターはなるものじゃないの。生まれついてよ」という言葉を恐ろしいテイストでリフレインすな!
しかし、マッケイに渡したのは偽札であった。案の定バレたので逃走するが、ネリーとマニーは愛を語り合っている余裕があったら一刻も早く逃げてほしい。
一連の出来事から22年後、ロサンゼルスを去っていたマニーは再び戻ってくる(いいのか? 戻ってきても)。彼が映画館で観るのは『雨に唄えば』である。トーキーへの移行期、狂騒のあの時代を思い出したマニーは涙ぐんでスクリーンに釘付けになる。ここでこの映画は終わる。いいのか? それで‥‥。マニーの中では「いい時代だった」で終わっていていいのか? ハリウッドの壮絶な光と闇に翻弄されてちょっと『ニュー・シネマ・パラダイス』風に着地していいのか? と思った。ゲロだったり排泄物だったりモザイクだったり、ハードな表現を全面に出してきたわりには不思議な締め方だった。

2. キャラクターの感想

特に印象的だったキャラクターについて。
まず何をおいてもレディ・フェイである。アンナ・メイ・ウォンだった。
『モロッコ』のマレーネ・ディートリッヒを彷彿とさせる格好で登場する。メーキャップや中国系設定からアンナ・メイ・ウォンっぽいなと思っていたが、彼女の家がクリーニング屋という設定なのを観た時に「アンナ・メイ・ウォンじゃん!!!」と心の中で叫んだ。欧州に行くというのもそのままである。彼女について詳しくは別の記事に。

tochterdeskino.hatenablog.com

レディ・フェイの描写についてはいろいろ掘り下げが欲しかったところはある。
彼女はクリーニング屋を手伝い、映画の字幕をつける仕事もしている。となると、スターというほどのレベルの俳優ではないのだろうか。どちらかというとショーが主体なのだろう。いまいちつかめない。
そしてフェイの描写はそれこそアンナ・メイ・ウォンが映画の中でされていた描写の域を出ないと思った。別の記事でも触れた通り、アンナは「チャイニーズ・ヴァンプ」「ドラゴン・レディ」と称されるような妖しく神秘的な東洋人女性のステレオタイプを演じ続けた。本人はそれを嫌がって欧州に赴くことになった。しかし、この作品においてフェイはあくまでも"謎めいた女"である(クリーニング屋の店頭に現れる彼女の場面とかまさしく神秘的・謎めいた雰囲気を醸し出すようなものだったと思う)。アンナ・メイ・ウォンという俳優の存在にオマージュを捧げるというより、『アンナ・メイ・ウォン』という(表面上の)スタイルをなぞっているだけに見える。なんというか、サイレント映画の時代の要素のひとつとしてただ出したかった、みたいな。
当時の黒人差別やユダヤ人差別について製作者が自覚的な描写はあったが(シドニーの黒塗りやネリーの撮影の際のくしゃみ事件など)、アジア系へのそれは皆無である。先述の通り、排泄物やら吐瀉物やらを含めて容赦なく「描く」ことに重きをおいているようなこの作品で、「描かれない」ということはアジア系への偏見があった(ないしは今もある)という認識がないのかもしれない、とも感じる(上記の「神秘的な東洋人」というステレオタイプ的描写はもしかしたら「描く」の内に含まれるのかもしれないが、だったら作品世界の中ではなく『この作品自体』という枠でやったのはなぜだ)。アンナ・メイ・ウォンをモデルとしたキャラクターを出しているにも関わらず、アンナが直面していたアジア人差別については意識が極めて希薄だなと思った。

そしてジャック・コンラッド。盛りが過ぎんとしているスター俳優。
彼に対するエリノア(だったっけ! 別のシーンだっけ!)の「20年前(最盛期)と全く変らないわ」というコメント、個人的にうわ~~と思った。
私は以前から再三書いているように日本人ハリウッドスター・早川雪洲が好きなのだが、彼に関する記事を大量に読む中で同種の言葉をたびたび目にした(主にトーキー映画が主流になる1930年代以降)。この手合いの言葉は純粋な褒め言葉であるような気がしなかったのだが、このモヤモヤとまったく同じ気持ちが想起された。変わったからこそ励ましで「変わっていない」と言うのだろうな、と思う。
彼は最後に拳銃自殺をする。彼はフェイに向かって、先行きが不安定な友人のジョージ(女に振られるたび死にたくなるほど落ち込む)や妻のことを「救ってくれないか」と言う。でも結局一番救いが必要だったのはジャック自身だったんじゃないか‥‥。

その他。ロスコー・アーバックルとヴァージニア・ラップを彷彿とさせるキャラクターが冒頭に出てきた。ルドルフ・ヴァレンティノに言及があったのも嬉しかったし、グレタ・ガルボグロリア・スワンソンキートンハロルド・ロイドチャップリンゲイリー・クーパーも話題に上がっていた。早川雪洲出てこないかなあと思ったけど出てこなかった

3. まとめ(?)

監督が映画が好きらしいのはわかったし、音楽は良かった。が、そこにリスペクトがあるかと言われるとよくわからない。そしてハリウッドって案外100年経っても変わらないのかもしれないなと思った。ところで私はアンナ・メイ・ウォンの伝記映画が待ち遠しいです。以上。

*1:画像の方ではChinese Wifeと表記されているが、青木鶴子は日本人である

私はまだ仮縫いが終わったばかり 『華麗なる闘い』感想

最近私が熱を上げている平田昭彦が出ていると知ったので観た。(ものすごく簡潔な成り行き)
ソフト化されていない映画らしく(おかげで貼れそうな画像もちょうどよい紹介動画もない)、東宝~~~ソフト化するか東宝名画座で配信して~~~~~~

清家隆子は、戸田洋裁学院の中からスカウトされ、高級洋装店「パルファン」に、勤めることになった。その経営者は、パリ帰りの松平ユキ。そこで隆子は、パルファン式の特殊な採寸裁断等に感嘆の目をみはった。しかし、最も隆子を魅了したのは、ルイ王朝風の豪華な「お店」そのものだった。「このお店を自分のものにしたい!」という隆子の願いは、いつしか決意へと変わっていった。そんな折ユキが経営不振をよそに、パリへと旅だった。後を託され張り切った隆子は、新企画をうち出し、その成功によって、一躍ファッション界の新星として、脚光を浴びるようになるが…。

華麗なる闘い(日本語字幕放送)|衛星劇場

※以下、ネタバレ注意

 

さらに結末まで言ってしまうと、
隆子はブランドをさらに盛り上げる手段としてファッションショーを企画する。ここで自分の名を売って独立しようと張り切る隆子。ユキにもショーに出す服のデザインを送ってもらおうと手紙を書き続けるが一向に返事はない。彼女に愛を告げるユキの弟・信彦に目もくれずショーに向けて仕事に打ち込む隆子だったが、直前になって音沙汰もなくユキが帰国。ショーの主役はユキに取って代わられ、披露される彼女の圧倒的なセンスに隆子は衝撃を受ける。夢破れた隆子は荷物を持って楽屋を立ち去り、「私の人生はやっと仮縫いが終わったばかりだ」と思いを新たにする。

ファッション業界の女の戦いというとドロドロしたイメージがあったが(一条ゆかりの『デザイナー』を読んだイメージが強いのかもしれない)、爽やかな終わり方で良かった。

ものすごく私情なのだが、主人公・隆子を演じる俳優(内藤洋子)が友人に雰囲気がそっくりで心のなかで叱咤激励をしながら観てしまった。生き生きと夢を追い、着実に足場を固めていく彼女はとても輝いている。彼女のワンマンぶりに不満を漏らすスタッフたちを、賃上げで完全に黙らせる手腕が最高にかっこよかった。欲を出しすぎたかラストでは足元をすくわれる結果になったが、いつかきっと報われてほしいなと思った。

ユキは本当にずるいと思う。パルファンの経営が傾いたタイミングでそれを隠したまま隆子に店を任せてパリへ逃げ、いざ店が盛り返したら隆子の努力に乗っかる形でショーに参加し、その圧倒的な才能で隆子を潰す。でも、ユキも過去に似たようなことをされてきたのかもしれない、なんて思った。それでもなお生き残って一線で活躍しているのが彼女の強さなのかもしれない。
ついでに書くと、ユキのファッションショーの場面が良かった。真っ白なステージに色鮮やかな衣装を身に纏い、軽やかなステップを踏むモデルたち。パリ帰りというのもあって確かにあの頃のフランス映画っぽい(『シェルブールの雨傘』とか『ロシュフォールの恋人たち』チック)テイストだな~と思った。それから東宝映画は音楽や歌唱シーンが印象的な作品が多い(『青い山脈』とか、『暗黒街』シリーズもそうかも)ように感じていたのだけれど、ショーの場面でもそれが存分に生かされている気がした。

そのショーを見て呆然と楽屋に戻る隆子。そこへ現れるユキ。「清家さん、あなた独立なさるそうね。がんばってね」。
この「独立なさるそうね」はこの作品における殺し文句である。物語の序盤、パルファンのNo.2であった小式部も、「あなた独立なさるそうね」とユキに店を追い出されている。当時、小式部が去る姿を隆子はそっと門の影から見守っていた。しかし今や隆子本人が小式部と同じ立場である。
ユキは自分の元から去ろうとする人間に至極冷淡だ。ユキの弟・信彦も隆子に対してやや愛が重め(そして彼女が追い出される際には「好きだったのに…」と突き放す感じ)だったので、この姉弟は揃ってそういうタチなのだろうか。

夢やぶれ、ショー会場であったデパートを出ていく隆子。きらびやかな内装が皮肉に見える。物語の中盤で「私はまだ仮縫いが終わったばかりよ」と自分の人生、そして若さを喩えていた彼女(記憶が怪しいが傍に居た贋作画家の男がそう言っていたのかも)を思い出し、私は「そうだよね、隆子の人生はまだこれからだ」としみじみしていた。
が、最後にわざわざ字幕で「私の人生はまだやっと仮縫いが終ったばかり」(本縫いが終わったときはどうなっているだろう……的な文が続く)と出た時はずっこけそうになった。いやそこは観客の解釈という名の余白に委ねていいのでは!? と思った。それか隆子に言わせるくらいがいいんじゃないだろうか。なぜ字幕を選んだんだろう、原作が小説だから?(まさかそんな安直な理由でもあるまいし) と締めだけはモヤモヤしたが、全体的には良い作品だったと思う。俳優目当てで観たが良作に出会えてよかった。

サクセスストーリーといえば『イヴの総て』なんかが有名だが、あの作品ではイヴが成功すると同時に第二のイヴの存在が示唆されて終わる。一方、『華麗なる闘い』で最後隆子は夢破れてしまったけれど、その姿もまた第二の小式部かもしれないし、もしくは第二の松平ユキになり得るのかなと思った。

ちなみに平田昭彦はデパートの企画系らしき部署のお偉いさん的な役だった(解像度が低い)。お役人とか銀行員とか博士とかPDグレースっぽい役が多い気がする。

この世で確かなことが1つだけある、人は殺せる 『鎌倉殿の13人』感想

次の大河が始まる前に滑り込み感想。
※『ゴッドファーザー』のネタバレがあります

『鎌倉殿の13人』が終わった。
結構Twitterで話題になっていた気がするし、私の友人たちの視聴率もまあまあ高かった気がする。私もほぼ全話リアタイ視聴(壇ノ浦だけ見逃した)した。それから熱心な視聴者の友人に連れられて鶴岡八幡宮大河ドラマ館にも行った。

私はわりと歴史が好きな方だったので大河も何本かは観たことあったが、そのほとんどが戦国大河である。鎌倉時代大河ドラマになると聞いた時に、どういう展開になるのかさっぱりわからなかった。日本史の教科書以上の知識がなかった。
平家が滅んで、義経が平泉で死に、そのうちに源氏が三代であっという間に途絶え、その後北条氏が実権を握って承久の乱があり、三浦や安達あたりが滅亡して、元寇で幕府はボロボロ。そして『太平記』の世界線に続く。真田広之かっこよかったなあ(脱線)

ついでに三谷幸喜が「北条義時を『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネを参考にして描いている」というのでマジで? と思った。二代執権とマフィアの三男坊!? どこか似てる要素あるの!? と1月くらいには思っていた。『ゴッドファーザー』は大好きな映画なのでわりと見返している自信があるが(以前にも少し書いたけれど)、さっぱりそれっぽさを感じられないのだが……と思っていた。

tochterdeskino.hatenablog.com

観終わった今「わかる~~」しかない。
時政パパが「みんなの笑顔が一番!」みたいなことを言いながら、りくにいろいろ煽られて結果として北条家が権力を握っていくのとか、ヴィトー・コルレオーネが家族のためを思って結果的にマフィアになったやつの究極ピタゴラスイッチバージョンだ……。でも義時が頼朝からいろいろ学んでいるのも踏まえると、『ゴッドファーザー』のヴィトー的ポジションは時政パパと頼朝で分割かもしれない。そしてその組織を守ろうとすればするほど家族がどんどん離れていくのは完全にマイケル=義時の構図である。
政子は義時の傍にいるポジションだからコニーかな、と思った。でも、最終回で義時がうっかり今まで消した13人にうっかり頼家を挙げてしまい、「うすうすそう思っていたけど」と政子が言うシーンで認識が変わった。そのシーンがゴッドファーザーPart1の最後の場面を彷彿とさせた(「コニーの夫を殺したのか」とケイに問われ、「殺してない」と答えるマイケル。しかし「ドン・コルレオーネ」と呼ばれるマイケルのことを、何かを悟ったような目で見つめるケイの前で扉が閉められる)。なので政子はケイっぽさもあるかな(特にケイはファミリーが非合法なビジネスをやっているのが嫌みたいだし、殺しを嫌がる政子とそこも重なるかな)、と思ったけれど、実のところどうなんだろう。
そういえば大江殿はトム・ヘイゲンらしいですね。ブレーンって感じがわかる。

三谷幸喜といえばコメディ、という認識があった。大河ドラマとしては前回作の『真田丸』もけっこう軽妙なやりとりがあった覚えがある(目の不自由な大谷吉継のために発言のあとは名乗ろう! という流れになって、細川忠興伊達政宗が毎回律儀に名乗っていたシーンが好き)。
がしかし、コメディで発揮される「予想だにしない展開に落とす」、そして人を笑わせるという技術が、悲劇の方向性でも活きることを2022年、学んだ。
個人的な地獄回は大姫と蒲殿の退場回(第24回)である。大姫のことについては「そりゃあんなにイケメンな冠者殿(源義高)のこと忘れられんわ」とも友人とよく言っていた。また、史実で義高の死後、大姫は体調を崩しがちになり早逝したことも知っていた。
その一方で『鎌倉殿』で大姫はスピリチュアル系女子になったので、ずいぶんマイルドな描き方だなと思っていた。そして作中、巴御前にも勇気づけられ、あれこのまま入内する? とおもいきや丹後局圧迫面接である。怖すぎてテレビ画面の前で震えた。この世から面接なんてなくなればいいと思う。生きることを拒否した大姫はそのまま弱って息絶え、もうこの時点ですごく辛いのに、序盤で「助かった」と思っていた蒲殿がとんだとばっちりで死んだ。何食べたらこんな脚本思いつくんだろう。

個人的に印象に残った登場人物は、第一に冠者殿こと源義高である。市川染五郎がめちゃくちゃかっこいい。梨園にこんな美少年がいたのかと衝撃だった。なんなら先述の友人と六月大歌舞伎の第二部に足を運び、彼の演じる『信康』を観た。信康でも悲劇の貴公子枠だったのでいつか時代物でハッピーエンドな役を演じてほしい。さらに八月納涼歌舞伎の弥次喜多の配信も観た。活躍を見守っていきたい……。
ちなみに彼のインスタは美の宝庫である。シュウウエムラの広告とか超美しいです。

あと純粋に物語上の立ち回りで興味をもったのはのえ。彼女がどうしてそもそもあんなに権力欲が強くなったのかが気になる。『鎌倉殿』に出てくる女性陣は行動理由が誰かしらへの「愛」であることが多いように見えたので、のえは少し異色な存在に写ったし、もうちょっと掘り下げが見てみたかった気もする。

三谷幸喜の脚本の魅力はテンポ感や軽妙さなのかなとなんとなく思っている。たしかに観ていて楽しいし、大河ドラマ初視聴の友人が「初めての大河だけど楽しかった! 三谷幸喜、歴史得意じゃない人のためにいろんな時代劇書いてほしい」と言っていたので、肩の力を抜いて楽しめる(人が死にまくる辺りは内容的にともかく、基本的な作劇が)ように思う。私は時代劇に重厚感などを求めるタイプなので、脚本がめちゃくちゃすごいのはわかるし良い作品だとは思うけど、ごく個人的な好みとは違うなと思った(フランス料理を食べて「イタリアンのほうが好みかも」と言っているような感じという自覚はある)。でもやっぱり作品は面白いので、また三谷脚本の大河が放映されれば観たい。

余談だが、周りの友人達に好きな大河は何? と聞いたら直江兼続好きからは『天地人』、真田信繁(幸村)好きからは『真田丸』と返ってきた。私は『独眼竜政宗』が好きだけど、『麒麟がくる』は斎藤道三が好きすぎて各話5回以上は観た。おわり。